講演+インタビューシリーズ『ライフスタイルを見る視点』


4.質疑応答と討論

松村 建築で住宅やっている人がたぶん皆感じていると思うのですが、欧米の住宅の写真をみると、時代を経てもその中の調度とか部屋のあんばいというのはあまり変わっていない。日本では世代が変わるたびになし崩し的に変わってきているのに対して、家のイメージについての何か型というか安定した構図というか、仮に家族のモデル変わっていったとしても底の部分で持ちこたえているものがあるように感じるのですが。
西川 ヨーロッパの近代が長期にわたったというのは事実だと思います。ある社会の特徴はその社会のどの時期が長かったか、と関連するのでは。日本型にはたしかに近世の「いえ」的なものが根強くのこっている。しかし速度の差はあるが、すべての社会は接触、交流しながら変化する。本質論におちいらないようにしながら、比較の根底にある共通性と、その基盤の上で競うからこそお互いを違えていかなくてはならない面と、両方を見てゆく必要があるのではないでしょうか。
鈴木 ぜひおたずねしたいのですが、「囲炉裏端」、「お茶の間」、「リビング」、「ワンルーム」という二重構造のモデルとその移行というのは日本だけなのかということです。それともほかの国にも多少なりとも共有できるような同様の状況があるのでしょうか。
西川 必ずあると思います。それぞれの社会にあるのではないでしょうか。私はヴァージョンが微妙に違うところを比較してゆくうちに、興味深い全体のストーリーが読めるのではないかと思っています。地球はもう部分では語れなくなっているわけですから。ただ出現のあり方はそれぞれが違うはずで、そこを知りたいです。そのときには、まとめて小住宅というように呼ぶよりは、各言語で使われている語彙のなかから用語をえらび、その単語だけでも指示の内容をできるだけ具体的に知りたい。例えばフランスで「スチュディオ」と呼ばれている住まいが日本の「ワンルーム」にあたるのだろうと思います。パリには「スチュディオ」を持っていて、田舎には先祖代々の家、あるいは購買した「田舎の家」があるという二重生活は今でも多いようです。田舎の家に対する執着が強く、バカンスにはそこで「家族する」、という生活です。その時の家族は、どうもふだんの単身者生活や核家族的生活ではなく、3世代家族、ステップファーミリーをふくむ多種多様な大家族が出現している。いろんな変化を短期間で凝縮して、あるいはある時代を飛ばし先へ行かねばならなかった社会もあるし、ある時代がすごく長い社会もあるし、ということでしょうか。
鈴木 もう一点、これは西田さんから聞いていただいた方がいいのかもしれませんが、我々は生活は住宅の中だけではないと考えているので、それぞれの家モデルに対して、家の周囲や街の状況もセットで対応していると思うのですが。地域や街のあり方、今後についてはどうお考えですか。
西川 住まいと同じく街も地域も絶えず変化している。A型地域、B型地域という風に、地図の上に落として塗り分けができる状況ではなくて、どちらかというとマーブルケーキ状態になる。住人の移動も避けられない。観光用に町保存して、住人に昔風生活を強制しても無理ではないか。むしろ混淆をデザインしたマーブル模様の複雑さのある都市生活を楽しみたいです。
 古屋を借りて他人の記憶を受け継ぐのもいんじゃないかな、とおもいます。今までは自分のご先祖様の記憶しか継げなかった。日本列島全部が、天皇家を中心とする血縁家族であるとする呪縛イメージだと、よそ者は他人の記憶を受け継げなかった。でもそこが変わってきた。思い入れをする他人が受け継いでいいと考えられる。そのような意味で、これからの人のアイデンティティは一通りではない、複雑なものになってゆく。都市を移民社会的に住み分けるのではなくて、逆に一人の人間の中に異文化が集積する。他人様が決めてくれるアイデンティティではない、選択的関係性のなかで生きてゆく人はそうなるのではないか。人は何もかも選べるものではない、選択だけではありえないと私も思いますけど、でも決定的に一つだけしか所属がないということはもはや考えられない。無数の偶然からえらびとり、偶然を必然にしてゆくのが人生だ、となるのではないでしょうか。
松村 これは僕だけの理解かもしれないけど、建築の分野というのは、伝統的に「私」よりも公共を大事にする、個人ではなくてそれが集まった状態について何かを考えることを役割だと自分で任じる精神で教育を受けている。設計にあたっても個と個が共有する空間のあり方をテーマにしていて、個がどういう風に生きるかということには触らないできている。自由にやっている建築家でも非常に強い職能意識-個人の満足のためではなくて、社会のためにやっているという意識が強いように思うのですが。
西川 今、新しい公共性という言葉がよく使われます。それが何か、私にはまだはっきりとはわかっていないのですが、今までとはちがう新しい関係性を編み上げる必要があるのだ、という勘だけはみんなが共有していると思います。裸の個人は弱い存在であって、他者たちとの関係性があってはじめて生きることができる。人と人との関係を空間にデザインする仕事はますます重要だと思います。ただ公共性=国家であった時代の建築家の役割と現在の役割とはちがうのではないでしょうか。国家<家族<個人を一本の柱が貫いているようなアイデンティティがもはやありえない時代に私たちはいるのであって、そこから大きな転換が起こっている。つまりかつては公があっての私だったが、現在の私たちが求めているのは私から編み上げる他者との直接的な関係性であり、その向こうに新しい公共性があるのではないか。今までの建築家が考えていた公共性が、ひょっとしたら上からの公共性であったとしたら、それよりもまず、私と私とをつなぐ協同性のデザインが求められている。建築家のデザインに期待するからこそ、建築家にはそれぞれの個人がどのように生きているかを知っていただきたいという思いが強いです。


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