講演+インタビューシリーズ『ライフスタイルを見る視点』


2.日本型近代家族と住まいの変遷の4大特徴

・特徴2.住まいモデルの2重構造、2重帰属モデルの繰り返しによる微調整
 日本型のもう一つの特徴は、モデルチェンジをくりかえすことです。住まいモデルが変わるたびに中身が変わるわけであって、人間関係の組み替えは住宅の建て替えや改築以上にしんどい。日本近代130年のあいだに、人々はその苦しい試みをくりかえし行った。血のにじむ努力と葛藤があったはずですが、そのたびに新しいモデルが幸福を約束していた。私は次のような、くりかえす二重構造モデルをつくってみました。
  • 家族モデルの旧二重構造:「家」家族/「家庭」家族
  • 家族モデルの新二重構造:「家庭」家族/個人
これに対応する住まいモデルは次のようになります。
  • 住まいモデルの旧二重構造:「いろり端のある家」/「茶の間のある家」
  • 住まいモデルの新二重構造:「リビングのある家」/「ワンルーム」
 家制度の「家」家族ですが、ご存知のように明治民法では戸主の六親等までが家族で、その中に夫婦が何組も含まれる可能性があります。けれども現実には次男三男はどんどん都市に労働力として引き出され、そして不況になったら村に帰り、好景気になったらあるいは村が疲弊すると都市に出るという往復を繰り返す。往復運動を繰り返しながらしだいに「家庭」家族を形成して都市に定着するというか、故郷にはもう帰れなくなるというか、都市人口が膨らんでゆく。明治期のいわゆる細民窟調査は木賃宿にたむろする人たちが家族形成をしていない、あるいは同居が流動的であることに注目していました。ここに国家の家族政策、住宅政策が介入して、家族の形成を指導してゆく。
 家族の扶養が可能な家族賃金を稼ぐ給与生活者は「家庭」家族をつくり、やがては新中間層を形成する厚みになります。「家庭」家族の植民地進出もありました。人々は「家」だけでなく「家庭」にも属するという二重の所属意識をもつ。あるいは分家して創設一代目家長となる。給料生活者は「家」家族から仕送りを受けて学歴をつけたわけですが、給料の方が世襲財産よりもだんだん強くなるわけですから「家庭」家族を形成しながら、逆に親兄弟に仕送りする。親をひきとって、嫁姑問題が発生した。「家」と「家庭」はたがいにモノとヒトを引き取ったり、預かったりしており、世帯、つまり家計範囲があいまいです。こういった家族の二重構造に対応する住まいモデルが「いろり端のある家」/「茶の間のある家」の二重構造なのではないか。
 「茶の間のある家」モデルはもともと中流紳士のために郊外にある独立家屋として創出されたはずですが、大衆化すると長屋住宅まで「茶の間のある家」となる。戦前の大阪の住人の90パーセントが借家に住み、借家の95パーセントが長屋であったといわれています。私は長屋建設によって世界にまれな木造近代都市となっていた戦前の大阪を一目みたかった、と思います。和田康由氏や寺内信氏の大阪の近代長屋の研究はじつに面白い。大阪市は土地整備をした後に、住宅建設は業者にまかせた。長屋王として成功した人の立身出世物語を読むと、現代の小規模ニュータウン人口ほどの借家人をかかえている。マーケット、銭湯、映画館という共同利用施設をつくる。借家人をひきつけるために長屋のファサードの意匠に凝る。ハイカラ長屋と呼ばれて今も少数ながら残っている近代長屋は魅力的です。
 木造近代都市であった大阪が空襲で焼け野原になったとき、大都市の人口はどこに吸収されたのでしょう。私は「家」制度が最後に機能したのは疎開の受け入れだったと思います。つまり戦災、引き揚げで住まいを失った人たちが故郷の「家」に吸収されてかろうじて生き延びた。
 しかし1947年の民法改正により、法律上は「家」家族はなくなる。改正戸籍法の家族は、一組の夫婦とその子どもたちです。占領下であったとはいえ、戦前の「家」制度が崩壊したあの時なぜ反乱が起こらなかったのか。当時の新聞を見ると戸籍上の「家」家族には会ったこともないし名前も知らないメンバーがいる、戸籍上の「家」家族はすでに空洞化しているから「家」制度廃止に痛痒を感じないという感想がかなり多い。戦争そのものが人々を故郷の家からひきだし、二重構造の重心はとっくに後ろの「家庭」へと傾いていたということがあったのだとおもいます。一方、「家」制度は廃止といいながら戸籍制度は残り、二重構造はトカゲがみずからの尻尾を切るようにして生き残ったということも言えるだろうと思います。


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