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鈴木: |
岩村さんの著書を拝見すると、1970年代初めに取り組んだ卒業論文や修士論文の時点から環境デザインを意識されています。また1990年には『建築環境論』を執筆されるなどこの分野の草分け的存在です。今回はそうした岩村さんに環境デザインとライフスタイルの関係などをざっくばらんに伺いたいと考えています。まずは環境デザインを意識されるようになったきっかけからお話し下さい。
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岩村: |
私が学生だった1970年前後は安保(日米安全保障条約延長にまつわる闘争)以降の未来を巡る混乱と期待、そして政治的シラケが始まった時代でした。同時に海外からの様々な刺激が加わり、「既存の価値観や教育体系から脱却したい」という思いが募った時代でもあります。60年代末からのアーキグラムによるドローイングを通したあっけらかんとした概念の剽窃や、バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」などといった工学と哲学を包摂した理念と技術、そして建築と生物学の境を取り払ったフライ・オットーの理論と構造等の知見に触れながら、生意気ですが自分は近代建築の枠組みの中に留まっていていいのか、と考えるようになりました。
学部生の終わり頃に国の威信をかけて開催された「大阪万博(1970年)」も、それが踏み絵のような存在となったという意味で大きな出来事でしたね。万博で示された楽天的な技術信仰に基づく未来に期待を膨らませるのか、それともこんな未来はやりきれないと感じ一線を引くのかが迫られたのだと思います。私は万博の展示では大屋根の中に見つけたC.アレグザンダーの「人間都市」に最も印象的な新しさと深い洞察を感じましたし、今にして思えば後者に属すると言えるでしょう。
そんなこともあり、とにかく外から日本を考えたいという思いが高じて、大学院の修了前にフランス政府給費研修生としてパリに渡りました。ところがその頃のフランス建築界も世界の流れの発端となった1968年五月革命後の状況を引きずる混乱の最中にありました。そんな中でも、やがて時代を画することになるポンピドゥーセンターの現場が始まった頃でもあり、今思えば大変意味のある現場に遭遇したと言えるのかもしれません。いずれにしても学制改革後の大学は建築を学ぶ状況ではなく、結局、かつてCIAMの近代建築運動にチーム・テンの一員として異議を唱えたジョルジュ・キャンディリスのパリ事務所で、さらに遠く離れた中近東での実務を経験しながら自分自身と日本を見つめ直すことになりました。
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