スウェーデンのコレクティブハウスにおける
 共食活動の運営と環境

 

(2) コレクティブハウジングの発祥と展開

1) 近代的な住宅政策の始動ー1940年代
 スウェーデンでは福祉政策と連動した公的な住宅が供給されてきましたが、その始まりは1940年代です。スウェーデンは第一次・第二次の世界大戦に参戦しておらず、大戦中に国の様々な制度を整備することができました。一方、産業革命に乗り遅れ、19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの中でも最貧国で、人口流出が進む状況に直面していました。
 その中でスウェーデンを福祉国家として導いていった政党が社会民主労働者党です。この政党の2代目党首ペール・アルビン・ハンソン氏が、彼が首相になる前の1928年に「国民の家」という政治公約を掲げました。この考え方のベースになったものはグンナー&アルバー・ミュルダール夫妻による「人口問題の危機」というレポートです。これはスウェーデンの人口減および出生率があがらない理由について調査したもので、居住環境が劣悪なために子どもを産む余裕がないのではと結論づけました。スウェーデンが人口を維持し、国家として成長していくためには、児童福祉施策と同時に、住宅の質を向上することが必要と提案しています。ハンソン氏はその提案を受けて、全ての国民への良質な住宅供給を公が責任をもって進めて行くとアピールしました。当時のヨーロッパでは貧困層のスラムが形成されていましたが、スウェーデンではスラムの改善だけではなく、国民全てへの住宅供給を行うという、当時としてはユニークな方向性が展開されていきました。
 当時の住宅政策の重要課題は少子化対策と、貧困に苦しむ世帯の女性の社会進出を支える住宅創出、良き民主的な市民の創出の3つです。3つ目がとても面白く、理に適った視点と考えていますが、スウェーデン社会の存続が危ぶまれる状況から盛り返すために、一般市民の声を政治に反映させるための善き民主的市民をつくりあげていくということが住宅地形成の中でも反映されていきます。具体的には住宅地の中に共用施設を配置する試みがなされていて、1940年代につくられた住宅地にある洗濯棟などは現代でも目にすることができます。

2) オッレ・エンクビスト氏のコ・ハウジング
 こうした社会背景の中で、個人住宅建設業者だったオッレ・エンクビスト氏が、1940年代以降20年の歳月をかけてストックホルムに6つのコ・ハウジングを建設していきます、その第1号は1944年、第二次世界大戦終結前にマリエベリィというところで建設されました。198住戸の大規模な集合住宅で、受付・食堂・幼稚園やその他の共用施設を備えていました。また、女性の家事労働軽減を目的としているため、食事クーポン制度を導入し、入居者が成人1人あたり1年間10ヶ月、月24食分を必ず購入するという契約が行われていました。実際の入居者は母子世帯が多かったということです。
 オッレ・エンクビスト氏によるコ・ハウジングの最後で最大のものは、ハッセルビィ・ファミリィ・ホテルという328住戸の集合住宅です。規模が大きいので、各階ごとに食堂・パーティルーム、カフェテリア付きクラブルーム、受付、商店、幼稚園、洗濯室、サウナ、プレイルームなど多様な共用施設が整備されました。食事クーポンや掃除・洗濯のサービスは、コストに対応する利潤が追求できないために廃止しましたが、代わりにレストランなどが配置されました。母親が就労する世帯のニーズの高いことが分かっていたので、そういった家庭の支援を重視しました。ただここでは、住民の協働による家事運営はまだ考えられていません。