「私」を確かめる行為の可能性
やはり面白かった。刺激的だった。
桐生市の山治織物工場跡で10年以上続けられてきた西村さん、山アさん、石井さんのyamajiorimono*worksを、私は1年前にも訪れていた。その時の鮮烈な印象とそこで考えさせられたことについては、2018年11月に出版した拙著「空き家を活かす−空間資源大国ニッポンの知恵」(朝日新書)に少し長めに書かせて頂いたので割愛するが、大きくは、次のような気付きに繋がる貴重な体験だったことを綴った。即ち、空き建物に手を入れる行為は、住宅産業にとっては日常的な「仕事」なのだが、その建物を暮らしの「場」に変える生活者にとっては、より豊かな人間性の発露たる「遊び」であり得るという気付きであった。そして、今回の訪問では、その「遊び」が人と場の関係を刺激し続け得ること確かめさせて頂けた。
インタヴューの最後に西村さんたちは、この10年以上継続してきた「遊び」はアートであり、それは紛れもなく「私」を見つける、「私」を確かめる行為なのだと語られた。またもや膝を打った。住宅産業の「仕事」には当てはまらないし、普通に新築やリノベーションを発注する施主にも当てはまらない。そう、こういう感覚は、空き建物に自ら働きかけ自分たちの生活の場を創り出そうとする人々の中にだったら、見出せるかもしれない。生活者、利用者が参加するセルフ・リノベーションと呼ばれる行為に、何か従来の「仕事」としての建築行為には感じられなかったものがあるようには思っていたが、腑に落ちた。それは西村さんたちの言う「私」を確かめる行為と全く同じものではないかもしれないが、同じ線上にある。少なくとも他人のためではなく自分のために打込む行為なのだ。
私は、これからの空き建物と人との関係は、この「私」や「自分」や「遊び」を大切にすることで、これまでの建物と人の関係とは全く異なる豊かさを見せてくれるのだと確信しつつある。またしても西村さん、山アさん、石井さんのyamajiorimono*worksは、私に大切な気付きを与えてくれた。
(松村秀一)
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