佐藤: |
萩野さんは東京出身でアメリカへ留学もされています。大学院時代の研究テーマもアトリウムでしたし、都会派という印象を持っていました。どういうきっかけで輪島に移住したのでしょうか。
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萩野: |
1993年から97年までアメリカに留学して、フィラデルフィア郊外の人口3,000人ほどの小さな町で活動していました。当時はアメリカに夢中になって、永住も真剣に考えていました。歴史や伝統を重んじる考えが日常生活に浸透し、地域に強いコミュニティーがあることに感動を受けたんです。
しかし、奨学金のルールのために東京へ戻らなくてはならなくなりました。帰国してしばらくは、極度のリバース・カルチャー・ショックに陥り、日本や東京の嫌なところばかりが目に付きました。人が多く、物価も高く、考え方も皆同じでないといけない。そんな生活が窮屈だったんですね。ところが1年ほど経つと、日本には日本のよさがあることに気づき始め、大工や左官などの日本の伝統的な技術も勉強し、それを生かした設計を試みたいと思うようになったんです。
初めて能登へ行ったのはそのように考え始めた2000年頃です。本の製本技術を以前習っていた私の妻は、アメリカで日本の紙漉きを学んだのですが、日本でも紙漉きを体験したいと考えていました。また、日本の学校を体験したことのなかった子供にも日本の学校を体験できる機会を探していたこともありました。東京で工芸品店を営むアメリカ人の友人から、能登の人々や紙漉き場、空き家まで紹介され、勧められるまま能登へ行くことになったんです。
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