鈴木: |
ハンガリーに行った時のビデオを今日持ってきたんだけど。
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松村: |
それの言わんとしていることはなんでしたっけ?
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鈴木: |
ハンガリーに限らず欧米では一般的だと思うんだけど、生活の様式と住宅の形式が一体となっていること。今なんとなく個人が勝手に住宅に関するライフスタイルを選べるような感じになっているじゃないですか。でもブタペストから来た留学生の実家に招かれたので皆で行ってみると、人を招く時の段取りと空間とインテリアのセッティングが完全に一つの様式になっている。まず、リビングでリキュールやスピリッツを勧められて飾ってある写真を話題にして談笑する。頃合いをみはからってダイニングとテラスのテーブルに案内されてディナー、暗くなったら庭でたき火を焚く。ああいうのを見ると個々人のライフスタイルとかいうことがむなしくなってしまう。しかもごく普通の住宅なのに我々一行、先生と学生10人ぐらいをちゃんと応対できる。今日本でそこそこフォーマルに10人を食事に招ける家はそんなにないでしょう。
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松村: |
ないねえ。ありえないねえ。2年ぐらい前からいっておいてもらわないと。僕らの仕事で言うと、学生を家に呼ぶとかいうことになるけど、昔の先生はやっているよね。
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鈴木: |
高橋鷹志先生は管の会を定期的に開かれていたし、鈴木成文先生も季節の行事やいろいろな集まりで人を招かれる・・・。
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松村: |
内田祥哉先生もそうだけど。うちの親父も狭かったけど家に呼んでいたよ。今マンションで、呼ぶ気になれば呼べるだろうけど、なかなかそんな感じにならないよね。来ても「ここですか先生のうちは」みたいになるでしょう。
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鈴木: |
ブタペストから帰った後で、日本では町家とかそれぐらいの家じゃないと招けないねえと話していたんだけど。
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松村: |
そうなんだよ、人が招けないという。で、ガボウさんちは立派だけど、基本的には気持ちの問題だよね。昔はサザエさんなんかを見ていても結構ふらっと人が来るでしょう。あれを見ていると。風呂敷包みを持ってきて、お父さんの知り合いがやってくるでしょう。料理出したり寿司とったり、ああいうことは昔はごく普通にあったけどね。うちの家なんかを見ていても。今僕んちだとおそらくね、家族以外の人間が床の上に上がったことはないね(笑)。この間北京から来たホームステイの子ぐらいかなあ。
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鈴木: |
人を招けるかという話がひとつと、もうひとつは、日本の住宅の様式が中途半端に洋風化していること。戦後がらっと変わっちゃったその混乱の収拾がまだついていないんじゃないか。亡くなられた外山義先生が高齢者の施設を住宅化する方向性を提案されたわけだけど、ヨーロッパなら施設を住宅化しようといえば、家具からインテリアから全部住宅の様式というものが皆で共有・了解されているのに対して、日本は住宅というものの様式が混乱しているから結構難しい。住宅的にデザインしたはずがテーマパーク的というかつくり過ぎというか、なぜか妙な和風になってしまう。
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松村: |
この前内田先生の話を聞いてなかなか面白かったんだけど、何の話かというと、上下足の話が大変混乱していると、どうやら下足のまま行くのが病院で、脱ぐのは医院と言っているようだと。ちっちゃな医院に行くと、建築のスタイルとして住宅だから靴を脱ぐと、スリッパに履き替えると。おっきな病院に行くと施設だから靴のまま。なんかの理由があるのかと考えると、無いと。僕もそのときに思ったんだけど施設系というのはどうやら靴を脱がないパタンじゃない、わりと。住宅は靴を脱いで上がって床に座ったりする。今言っていた高齢者施設なんかは、芹沢さんが言う脱施設・脱家族じゃないけど、結局どっちなのか迷いがあるよね。
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鈴木: |
建築雑誌の2005年5月号の特集「生活環境のリストララクチュアリング」の三浦研さんの原稿読んだ? 「「はきもの」から考える高齢者の生活環境」というタイトルでまさにその関係を職員の服装と靴のイラスト入りで書いていたよね。
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松村: |
靴を脱ぐか脱がないかで心理的なあれもあるし、靴を脱いでスリッパに履き替える施設は、壁仕上げなんかも連動してくるじゃない。
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鈴木: |
風邪ひいた時にいく近所の医院の建物が町家なんですよ。待合室は和室で畳だからスリッパもない。なんか不思議な感じがする。
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松村: |
うちの近所の歯医者なんかも靴脱いでいくでしょ、そうしたら中の仕上げなんかは住宅なんだよね。空間的には。住宅の中に機械が入っているだけで。
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鈴木: |
日本人の場合、靴を脱ぐと住居っぽいというのがあるんだけど、公共性というかパブリックな性格を持たせるには、靴を履いている方が入りやすいというのがある。若い建築家が住宅をデザインするとそういうタイプの空間をつくるでしょう。土間にそのまま入れるみたいな。
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松村: |
あれは多分都合がいいんでしょうな。家に人を招くとき、「どうぞおあがりください」っていうじゃない。外国では「どうぞおあがりください」とは言わないはずで「どうぞ」で終わっているはずで、土間だったら「どうぞ」ですむでしょう。
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鈴木: |
僕も学生が課題で設計しているときは、何となくそういうゾーンをつくれって誘導しているような気がする。ただそれが現代の社会でこなれた空間になりえるのかどうか、学生にとって人を招くことのできる社会的・公共的空間というものにリアリティがあるかどうかよくわからないんだけどね。
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松村: |
そうねえ。それは経験の問題もあるね。うちの子供の場合は人が家に来ないでしょう。それと同時に子どもが人の家に行くことも少ないでしょう。人の家に上がりこむことも。そうすると、人がどのように暮らしているかを見る機会が昔に比べると非常に少ない。
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鈴木: |
この間青木淳が話しているのを聞いてやっぱり首都圏は全然違うなと思ったのは、お受験で一番最初にダメージを受けるのは中学校だという話。つまりお受験で私立中学校に行くから中学校と地域が全然関係なくなる。近所には中学校の友達はいないわけだけど、遠くに住んでいる友達の家にはなかなか行けないよね。
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松村: |
行けないよ、遠いもん。友達とうちの子どももそうだけど、友達同士電車で通学しているから会うといっても繁華街しかないよね。
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鈴木: |
たまたま住んじゃった京都のこの辺にはまだ地域社会がある。たとえば街中だけど道を歩いていると知り合いにかなりあう。昨日も皮膚科のお医者さんにばったり会って「ちょっとこの子こんなの出来ちゃったんですよ」、「これはヘルペスですね」、みたいな会話があったりする。祇園祭でも、あの太鼓たたいているのはだれだれちゃんのお父さんみたいな話がある。地方にはどこでもまだそういうのはあるのかなあと思うんだけど。そういう関係があるとぜんぜん違うよね。
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松村: |
もちろん小学校ぐらいは家に行き来することはあるんだけど、中学校になるとまずないよね。かなり大げさなことになるよね、今だと。相手の家に行くということになると、土産持たさないということになって気楽にはいけないよね。
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鈴木: |
その辺の社交機能というのはどんどん変わっている感じがするよね。基本的にどんどん少なくなっている。
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松村: |
先生の家にも招かれないしね。正確には覚えていないけど、ハーバマスの「公共性の構造転換」に、そのことに関連してサロンと居間の関係が書かれていたよね。
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西田: |
最近NHKの番組の「鶴瓶の家族に乾杯」という番組をよく見るんですが、鶴瓶さんがどんどん家に入っていくんですよ。あれは番組やからかな。それとも田舎やからでしょうかね。
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松村: |
ヨネスケの突撃となりの晩御飯みたいなのもあるよね。ああいうのって信じられないけど、例えば、鍵閉めるか閉めないというのがあるでしょう。東京に暮らしているかぎりは家に鍵閉めないなんてありえないでしょう。でも家内の実家なんて鍵掛けていないと。夜寝るときぐらいはかけているかもしれないけど。鍵をかけるというのは寝る前の仕事で、それまでは鍵が開いているのが普通で、誰かれなく入ってくるらしいのよ、福岡の家はね。東京じゃちょっとありえないね。
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西田: |
そういえば谷中の西河さんの家は玄関いつも開いていますね。
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鈴木: |
四軒長屋の西河さんち(西庵)はそうだねえ。ドアだと開か閉しかないけど、引き戸だから少し開けておくことができると言っていた。
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松村: |
でもやっぱり鍵は閉めるよね。
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西田: |
大阪のおじいちゃんの家もいつ行っても開いていたなあ。人を招ける家でしたね。もうその家もなくなりましたけどね。会社の偉いさんで人の出入りが多かったからかなあ。
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