郊外住宅地の復興 −街を元気に−

郊外住宅地はどのように形成されたか

 東京を例にとって、大都市における郊外住宅地の形成のされ方を振り返ってみると実に興味深いことがわかる。むろん、明治期以前の日本においては、「郊外」という概念自体が存在しなかった。郊外とは、産業革命と同時に成立した近代都市の周辺部、町外れとして認知され、その後の産業社会の発展に伴い、職住分離のうちの「住」を受け持つ場として、あるいは市街地の過密や煤煙から逃れて、自然に親しみ伸びやかに生活できる空間として位置づけられていったと考えられる。
 さて、その郊外の発展の系譜であるが、東京の場合、最初の郊外住宅地といえる地域は、関東大震災の前後ぐらいから、現在の世田谷区や杉並区、大田区等に形成されていった。山手線の外側である。被災した人たちが、より安全で快適な住宅地を求め、また、明治以降の産業化の進展により、その頃には「月給取り」という新たな階層が確立されていたからである。
 次に、郊外住宅地が新たに発展するのは戦後の高度経済成長期に突入して以降である。最初に、都市近郊に集合住宅団地が続々と建設されたが、すぐに人々はより広い住宅、できれば一戸建て住宅をと願い、郊外は拡大の一途をたどった。東京圏では、多摩川を越えてその西側に住宅地が広がっていったのは1960年代半ば以降のことである。それより少し遅れて、70年代には荒川を越えて、千葉、埼玉方面に郊外住宅地が形成され、さらに利根川を越えて常磐方面にまで拡大するのは80年代に入ってからである。また、それ以前の郊外住宅地は、田んぼには適さない山や丘を切り拓いて造られたが、80年代以降は、埋立地にも住宅地が形成されていった。都心区を中心に、同心円状というよりは、少しずつタイムラグを持ちながら、西へ、東へ、北へ、埋立地へと郊外住宅地が形成されていったのである。
 さらに詳細に、その郊外住宅地の形成のされ方をみると、植物の生態に実によく似ているといえる。まず、植物の茎が伸びるように、郊外に向かって私鉄の線路が延びていく。そして、各駅を拠点にして、そこから丘や台地に向かって道路がまた茎のように伸びていく。そして、その先でまるで葉っぱのように宅地が造成され戸建て住宅が立ち並ぶ。そこでの父親の役割は文字通り「働き蜂」である。毎朝、丘の上から降りてきて、満員電車に乗り、手に入れた養分を丘の上に運ぶ。以来、40年余の時を経て、見事な花を咲かせて実になった子供たちはそこから巣立ち、今、ちょうど生涯の働きを終えた父親蜂が丘の上に戻ってきた次第というわけである。かなりシニカルな笑い話のように思われるかもしれないが、大都市郊外のどの住宅地にも通用し得る物語である。
 これに対して、地方都市の場合は、郊外住宅地といっても形成のされ方はかなり異なるかもしれない。地方都市で「郊外住宅地」といえる場所が形成されたのは、実はそれほど前のことではない。日本で自家用車の世帯普及率が50%を越えたのは1978年のオイルショック以降である。このモータリゼーションと、80年代中盤以降の世界一とまでいわれた経済発展により、道路が列島の隅々まで整備され、地方都市においても郊外居住が現実のものとなっていった。時代的に、我が国で最も手厚く巨大な道路整備への投資が行われたのは、バブル経済以降の90年代前半である。つい、この前のことである。地方でも、日当たりのよい広々とした清潔な住宅で、自由に生活できる環境が整ったのである。
 しかし、この時期に開発された郊外住宅地の中にはいわゆる白地地域などの、規制の緩い都市縁辺部に虫食い状に開発された所も少なくない。都市計画の専門家が「未成市街地」と揶揄する市街地に成り損ねている住宅地や、放棄地が広がり「限界郊外住宅地」と密かにいわれるような所もある。こうした所の歴史は、長めにみて約25年、既に初期入居者は引退年齢にさしかかりつつある。これらの住宅地の生命線は「車利用」である。ガソリン価格の高騰や、居住者のこれからの加齢により車中心のライフスタイルが成立し難くなったとき、地方都市の郊外住宅地は大きな危機を迎える。