講演+インタビューシリーズ『ライフスタイルを見る視点』


10. まとめ


ここから始まった

「このままでは建築界は駄目だ」という話題でそれまで定期的に飲み会を続けていた松永安光さん(建築家)、清水義次さん(アフタヌーンソサイエティ)、長屋博さん(一貫堂)、山本想太郎さん(建築家)と私とでHEAD研究会なる団体を立ち上げました(http://www.head-sos.jp/)。2008年2月のことです。「日本の建築と部品の潜在能力をとき放つ」というテーマの下、国際化TF、建材部品TF、情報プラットホームTFという3つのタスクフォースからスタートしましたが、やはりリノベーションを軸の一つにしなければということになり、2010年には大島芳彦さん(ブルースタジオ)と新堀学さん(建築家)に中心になってもらって、リノベーションTFを立ち上げました。

その年に先ず始めたのがリノベーション・シンポジウム(略称「リノベシンポ」)。シンポジウムをきっかけにそれを開催したまちで、今でいうリノベーションまちづくりが始まればという考えで、2010年は大阪、鹿児島で開催しました。この2回のシンポジウムには、思いのほか多くの人がしかも全国各地から集まり、リノベーションまちづくりの方向性を共有できる新しい仲間がゆるやかに形成されていったように思います。

2011年3月、東北大地震の1週間ほど後だったと思いますが、3回目のリノベシンポを北九州で開催しました。既にその時には、清水さんが加わる形で北九州市が「小倉家守構想」を作成していて、次にリノベーション・スクールをやる計画があり、その前提でのシンポジウムだったと記憶しています。北九州市役所の方々、地元のビルオーナーの方々、今回案内役をして下さった徳田光弘さんや嶋田洋平さん(らいおん建築事務所)、大島さんたち、その後リノベーション・スクールの中核を担うことになる方々も集まっていました。そして、2011年8月に初のリノベーション・スクールが北九州で開催されたのです。

それ以降の展開については、今回の取材記事に書かれていますが、都合11回に及ぶこれまでの北九州リノベーション・スクールに、受講生として或いはユニットマスターとして全国各地から集まった人同士の間に、新たな共感の輪がつくり出され、今ではHEAD研究会の手を離れ、全国30か所程のまちで次々にリノベーション・スクールが開催され、リノベーションまちづくり事業が小さなスケールから動き始めています。この動きには、これまでのところ継続性があり、共感の輪は広がり続けています。素晴らしいことだと思います。

そのすべてがここ、北九州から始まったのです。

(松村秀一)



聖地巡礼

日本のまちづくりの概念を大きく変え、全国にリノベーションまちづくり旋風を引き起こした震源地であるリノベーションスクール北九州。昨年2月に初めて参加し、あまりの熱気に圧倒されたが、残念ながらその成果物件は一部しか見ることができなかった。

今回は、見逃していた北九州リノベーションまちづくり、北九州家守舎の成果を、リーダーとして牽引してこられた九州工業大学の徳田光弘先生直々にご案内いただくというたいへん贅沢な機会だった。

全ての出発点となった「中屋ビル」の「ポポラート三番街」「メルカート三番街」(途中、ビルのオーナーであり日本のリノベーションまちづくりの大恩人ともいえる梯輝元氏にもご挨拶することができた)。

旦過市場の食材を生かした個性あるゲストハウス「タンガテーブル」(実は前々日にこの場所で開催された第一回ナイトタイム・エコノミスト・サミット『都市は食と夜があるから面白い!』という異常にディープなイベントを堪能したばかりであった)。

さらに、11軒のお店がならぶ長屋のリノベーション「comichiかわらぐち」から、空き地にコンテナとウッドデッキを設置して生まれた「サンロード商店街」のイタリアンバル「クッチーナ・ディ・トリヨン」まで、まさにリノベーションまちづくりの「聖地巡礼」であった。

街に欲しいものをポストイットに書いて貼り,街がこうなったいいねと絵を描くだけのワークショップではなく、現実の空き物件を対象として、事業計画までを提案するリノベーションスクールが実現したものの凄さをまのあたりにした(しかもこれらは一部なのだ)。初期投資を抑えて事業を成立させる方針もよく理解できた。何よりも、今の社会に必要とされているが、これまでなかった場を地域に生み出しているのが素晴らしい。

千里ニュータウンの地域活動に関わっている身としては「作家と作家、さらにはまちの人とが出会う、人のクリエイションの交流拠点ポポラート三番街」や「女性たちがスモールビジネスをはじめる場であり、子育てママたちが束の間の自分時間を手に入れることのできるcomichiかわらぐち」が大いに参考になった。女性が働くことが当たり前になった時代に当然あってしかるべきこうした施設が(吹田の「さたけん家」にその萌芽はあるものの)どうして千里からは生まれないのだろう(立派な再生指針はあるのに)。

実は理由ははっきりしている。1)計画されたニュータウンには新たな商売を始められる空きスペースはあまりなく、あっても貸してくれない。2)豊中市千里ニュータウン再生推進課は、今の時代に何が必要か、実現のためにどのような手段があるかを理解していない(そもそも新しいことをやる気はない)。3)多くの住民は今のままでいいと思っている(かつ公共にやってもらうことに慣れすぎている)。以上。

北九州から新しい風が全国に広がっている中、かつて実験都市といわれた千里は周回遅れの街となった。残念で、もったいなく、悲しいことである。

(鈴木毅)



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