歴史と平和の尊さを語り継ぐまち、知覧

◆はじめに
 知覧は鹿児島県薩摩半島南部の南九州市にあるまちです。南九州市は日本有数の茶の産地で、鹿児島県が産出額では2019年に静岡県を抜いて全国1位になり、その鹿児島県の中でも南九州市は県の約半分の茶を生産しています[1]。その南九州市でブランド緑茶として生産されているのが知覧茶で、まちの至る所で宣伝がされており、重要な産業であることが感じ取れました(写真1)。知覧で茶の栽培が盛んな理由としては2つあり、1つ目は低木の茶は台風の影響を受けにくいということ、2つ目は知覧が温暖湿潤な気候であり、桜島由来の水はけがよい黒色火山灰土壌があったため、茶の栽培に適していたからです[2]。
 知覧の歴史としては平安時代後期に知覧忠信が城を構え、室町時代には足利尊氏の指示により、島津家の分家である佐多氏が治めることになりました。その後、太閤検地などで異動はありましたが、幕末までの長い間佐多氏が知覧の領主であり続け、優れた当主が多く出たとされています。このように安穏な暮らしを続けてきた知覧ですが、第二次世界大戦をきっかけにその日々は終わりを迎えます。本稿では知覧の武家屋敷と戦時中の知覧の様子について紹介いたします。

写真1 知覧茶業振興会によるオブジェ

◆薩摩の小京都
 江戸時代に薩摩藩は領地を113の外城と呼ばれる行政区画に分け、武家集落が各地で造られていました。これの狙いのひとつは、武士団を鹿児島に集結させることなく分散して統治することにありました。外城は行政庁である御仮屋を中心として、麓と呼ばれる武士団の集落、町屋、村落が続くといった構成になっています。知覧はその外城の一つで、前述の佐多氏が地頭として知覧麓を治めていました。次第に佐多氏は薩摩藩により功績を認められ、16代久達の時代に私領地化と島津家を名乗ることが許されました。現存する知覧の武家屋敷庭園群は1750年前後に第18代知覧領主島津久峯公の時代に造られたものとなっています[3]。
 知覧の武家屋敷を歩いていて感じたこととしてはまず中国や沖縄の影響があります。知覧の武家屋敷群は軍事的な側面から見通しを悪くするために三叉路が多く、その突き当たりには石が置いてありました(写真2,3)。この石は石敢当と呼ばれる中国発祥の考え方で、屋敷内に魔物が入ってくるのを防ぐために置かれました。古来より中国と交流関係のあった琉球王国は江戸時代には薩摩藩に支配されており、知覧の港が琉球貿易の拠点であったため、このような文化が伝来したとされています。

写真2 知覧武家屋敷の三叉路

写真3 知覧武家屋敷にある石敢当

 知覧麓で見られる民家の特徴としては知覧型二ツ家があります。かつての民家は居住用のオモテと台所のあるナカエに分かれている分棟式民家と呼ばれるものでした。しかし、分かれていることは生活上不便が多かったため、オモテとナカエの二つの屋根を小棟によって合体させたものが知覧型二ツ家になります(写真4)。こちらの建物は中には入れなかったものの、知覧の名産品である傘提灯を含む家財がそのまま展示されており、知覧での暮らしを感じ取れました。
写真4 知覧型二ツ家(左手前がオモテ、右奥がナカエ)

 知覧麓のまちなみの景観の特徴は主屋と庭園の調和です。知覧の屋敷には防衛の観点から石垣が築かれていました。また、屋敷の敷地内には枯山水庭園があり、この庭園を茶が使われた生垣で囲うことによって、外から中を見せないようにしていました[4]。このようにして知覧にはどこまでも続く石垣と生垣があります(写真5)。また、麓の主要な街路は周辺の山や丘の頂を目標にして整備されており、山々を眺望することができました。このような石垣や生垣によって形成された美しく整然としたまちなみ、屋敷にある数々の庭園が庭園都市と評価され、知覧は薩摩の小京都と呼ばれるようになりました。
写真5 知覧麓の石垣と生垣が続くまちなみ

◆第二次世界大戦期の知覧
 明治時代に入ると知覧の御仮屋は裁判所や検察庁などに置き換わり、前述の茶業が盛んになるなどの変化はありましたが、江戸時代からの平穏な日々は続きました。しかし1939年に陸軍飛行場建設の計画が知覧町に伝えられ、太平洋戦争開戦と同時期の1941年12月に知覧飛行場が完成すると知覧の状況は一変します。
 知覧飛行場は最初パイロット育成のために建設されたものでした。知覧特攻平和会館で視聴した動画によると、当時の住人は今まで静かだったまちに、突如として現れた飛行機の騒音が悩ましかったと語っていました。そして、戦局が悪化し沖縄戦が始まると、知覧飛行場はパイロットの養成からパイロットを死地に送り出す特別攻撃隊の拠点となります。知覧基地は本土最南端で最も沖縄に近い軍事拠点であったことから全特攻戦死者の約4割が知覧から出撃したパイロットによるものでした。特攻は1945年4月6日の第1次総攻撃から同年の7月19日の第11次総攻撃まで続きました[5]。
 特攻隊のパイロットは全国から集められ、三角兵舎と呼ばれる建物で特攻する前の数日を過ごしました(写真6)。三角兵舎は半地下に埋まっており屋上は杉の幼木を被せることによって擬装されており、敵の空襲を避けるための工夫が施されていました。ここで特攻隊員は壮行会を開催した他、遺書や別れの手紙などを書いたとされています。三角兵舎は窓が無いため中は薄暗く、半地下でありながら地下に埋まっているかのように感じる空間でした。
写真6 三角兵舎の復元

◆歴史と平和の尊さを語り継ぐ知覧
 戦争が終わると、特攻隊を指揮した菅原道大や知覧で食堂を営んでいて特攻隊の面倒を見ていた鳥濱トメらの協力により1955年に知覧飛行場の跡地に特攻平和観音堂が建立されました。また、70年代には知覧特攻遺品館の建設や特攻隊員の銅像「とこしえに」が建立され、慰霊祭や夏祭りが開催され多くの人の関心を呼ぶようになりました。そして、1985年には手狭となっていた知覧特攻遺品館の代わりに1985年に知覧町がまちづくり特別対策事業の一環として知覧特攻平和会館を建設しました(写真7)。知覧特攻平和会館を訪れて感じたこととしては特攻隊員のありのままの姿を紹介しているということです。特攻隊員は平均年齢が21.6歳と若く、展示されていた数多くの手紙を読むと、一人一人に夢や思いなどがあるものの、戦争により叶わなかったことが痛感できました。このような展示は戦争に馴染みのない若い世代にも訴えかけるものがあり、平和の尊さを次の世代に効果的に伝えていると感じました。
 知覧特攻平和会館が開業した同時期の1981年には知覧麓が知覧町知覧伝統的建造物群保存地区として国の選定を受けました。このようにして行政の協力も受けながら住民たちが庭の管理などを行っており、現在でも歴史のある美しいまちなみを肌で感じることができます。
 このようにして知覧は歴史や平和の尊さを体験できるまちとして観光地となっていくのでした。
写真7 知覧特攻平和会館

◆終わりに
 観光地化として成功した知覧ですが2002年をピークに観光客は減少しており、現在ではピークの半分ほどの数字となっています[6]。観光客の減少の理由としては2つあると考えています。1つ目は競合の出現です。伝統的建造物群保存地区に関しては知覧が選定された当初は九州では2件目、全国では17件目でしたが、本稿執筆時点の2024年2月では九州で24件、全国で127件と増えていることがわかります[7]。また、知覧特攻平和会館に関しても埼玉ピースミュージアムや沖縄県平和祈念資料館など平和学習を行える施設が続々と開業しています。2つ目はアクセスに関する問題点です。筆者は鹿児島中央駅から路線バスで49駅経て1時間20分ほどかけて知覧に行きました。また、知覧に着いてからも知覧特攻平和会館と知覧武家屋敷庭園は徒歩で30分ほど離れていました。1つ目の課題である競合との差別化は困難ですが、武家屋敷に関しては石垣と生垣が形成するまちなみや知覧大工の創意工夫による知覧型二ツ家、知覧特攻平和会館に関しては特攻隊という二度と繰り返してはいけない悲劇を最も伝えられる場所としてのそれぞれの独自性をPRすることが重要であると考えます。
写真8

 2つ目の課題に関しても鹿児島交通知覧線が1965年には廃線になっていることから鹿児島中央からのアクセス向上は困難であると考えられますが、知覧内のアクセスに関してはシェアサイクル茶巡が2022年より開始されシェアサイクルと知覧茶巡りを掛け合わせた新しい観光の提供を始めています[8](写真8)。このように永久に歴史や平和の尊さを語り継ぐには様々な課題がありますが、それらを乗り越えるための対策にこれからの期待がかかります。
(文責・写真:江端吾朗)

◆参考文献
[1] 鹿児島県:茶業振興対策資料
https://www.pref.kagoshima.jp/ag06/chagyoshinkou/documents/87621_20230524201344-1.pdf
[2] 日本交通公社:知覧の茶畑
https://tabi.jtb.or.jp/res/460047-
[3] 知覧武家屋敷庭園:知覧武家屋敷
https://chiran-bukeyashiki.com/pages/14/
[4] 文化庁:日本遺産ポータルサイト
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/4697/
[5] 知覧特攻平和会館:これまでの歩み
https://chiran-tokkou.jp/steps.html
[6] 南九州市:地域再生計画
https://www.chisou.go.jp/tiiki/tiikisaisei/dai47nintei_furusato/plan/a085.pdf
[7] 文化庁:「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html
[8] 南九州市観光協会:シェアサイクル茶巡(チャーリー)について
https://minamikyushu-kankounavi.com/postSingle.php?mCd=62972c304111b&cd=MKKK0673&lang=ja