網走監獄(歴史・処遇編)-刑務所とまちの関係性の時代変容-

◆はじめに

網走市は北海道の北東に位置する、人口約33,500人を有するまちです。大自然にはさまざまな動植物が生息し、特に冬の流氷シーズンには国内外から多くの人々が訪れる北海道屈指の観光地です。
また網走市には日本で唯一見学できる刑務所「博物館網走監獄」があり、網走番外地をはじめとして数多くの映画や漫画の舞台になっています。博物館網走監獄は1983年に開館し、移築復原された旧網走刑務所(網走監獄)の歴史的建物25棟を保存展示しています。
この旧網走刑務所(網走監獄)は開庁当初は受刑者を収容し、処遇を行う以外に、北海道開拓を担う役目を持っていました。厳しい気候・労働環境・処遇の中での囚人労働が北海道の近代化を支えたと言っても過言ではありません。多くの尊い命が失われました。 本記事では網走監獄と地域との歩みについて紹介します。


写真:博物館網走監獄正門(著者撮影)

◆網走監獄の歴史-「刑務所が自分たちが住むまちにある」とは-

網走刑務所の前身である網走監獄は1891年に開庁し1200人近くが収容されました。
網走監獄設置の背景に、北海道開拓の重要度が高まっていたことがありました。時は明治時代、日本はロシアの南下に対抗するため北方の開拓・軍備増強に力を入れていてその労働力として先住民族、本州以南からの移民、屯田兵に加え、時代変化に伴う混乱から増加していた犯罪者が候補に挙げられました。
網走監獄の受刑者は睡眠時間を削って労役を行いました。特に札幌から旭川を通って網走に到達する中央道路の一部開削(網走・上川間136キロ)をほんの9ヶ月間で完了させたことは北海道の近代化を大きく進めた一方、気候・処遇・熊の出没といった命の危険と隣り合わせの工事で、1000人の従事者のうち、看守も含め200人以上が犠牲になったと言われています。
囚人労働が見直されることとなったのは開庁から20年近く経った後でした。1908年に監獄法が制定されると受刑者の人権も徐々に改善されるようになりました。また網走監獄は1922年の法改正により「網走刑務所」へと名称変更がなされ、施設形態も農園設置特設刑務所と変わり新たな幕開けを切ることとなりました。
同時期、網走刑務所(受刑者)と町(地域住民)で交流が見られるようになります。1921年に殉職者(囚人、看守、水難者)を追悼する灯籠流し「流灯会」が開催され、以降地域の恒例行事となっています。
さらに、更生保護という行刑思想が住民に浸透し始めたのもこの時期でした。寺永法専の免囚保護の運動はかつて社会から逸脱した行為と捉えられていましたが、1915年その取り組みが評価され藍綬褒章を受賞しました。
網走のまちは大正・昭和時代にかけて発展し、全国的に知名度を上げていきました。網走監獄は興味を抱かせる大きな仕掛けとして機能したものの、監獄が持つネガティブなイメージがメディアで拡散されて地元にコンプレックスを抱かせる結果になったことも事実です。それゆえ網走監獄の捉え方も住民によって異なっていました。1938年にまちから改名請願が出されたことはそのあらわれでしょう。
しかし、まちに歴史的・文化的価値を見出す市民の努力によって「負の遺産」と捉えられうる網走監獄を保存することが決定し、刑務所・行政・地域住民それぞれの垣根を超えたまちづくりが実践されています。

◆刑務所と地域の共存

前節で挙げた通り、網走監獄について様々な捉え方がある中で、草の根レベルの努力によって地域の記憶継承の仕組みが確立されました。現在日本各地で文化遺産の活用が検討されていますが、対話を重ねて負の記憶を公共的記憶に変容させ、それを「博物館網走監獄」で追体験できるようにしたまちのあゆみはそのような地域に大きなヒントを与えるでしょう。 さらに網走の優れた点は行刑思想の理解が高いところで、現在網走刑務所は地域社会における処遇・更生支援の体制づくりをすすめています。処遇について、網走刑務所は精神状態・犯罪傾向に問題がない一部の受刑者を塀のない農場で労役させる開放的処遇を行っています。開放的処遇は施設内処遇に対置する概念で、受刑者の自律心と責任感を信頼し、拘禁するような物理的・有形的な設備や措置を緩和して行う処遇制度のことです。数年前脱獄事件が発生してから見直しがなされているものの更生の促進を狙った行刑処遇方法だと考えられています。更生支援について、網走市は元犯罪者等の雇用確保を目的に地域再生計画を立案しています。犯罪歴は雇用においてハンディキャップとなることも多く、それが原因で孤立し再犯の動機となる場合があります。まちが一丸となって元犯罪者の雇用を後押しする動きは地域の創生にもつながると期待されます。受刑者を迷惑なものとしてラベリングするのではなく、地域社会で受け入れ体制が作られるに至った背景に、刑務所を核とした集落形成がなされてきたことがあるのでしょう。
刑務所はNIMBY問題の対象にあげられるような施設の一つです。網走市の取り組みは多様な人々を包摂できる社会づくりが求められている昨今、非常に評価すべきものです。

◆参考文献

1,小口千明(1983),集治監を核とした集落の形成と住民の集治監像,歴史地理学紀要,25,43-70
2,松浦雄介(2018),負の遺産を記憶することの(不)可能性ー三池炭鉱をめぐる集合的な表象と実践ー,フォーラム現代社会学,17,149-163
3,山中友理(2019),日本の刑事施設における自由の剥奪の実態,政策創造研究,13,41-63
4,横田勉(2009),監獄都市の発生と消長に関する考察:月形町と三笠市を例として,北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院院生論集,5,87-96
5,横田勉(2012),網走市における行刑施設の受容と共存,国際広報メディア・観光学ジャーナル,14,43-69
6,網走市地域再生計画(2022/10/21 閲覧) https://www.chisou.go.jp/tiiki/tiikisaisei/dai59nintei/plan/a012.pdf
7,悲しみの記憶をつなぐ ダークツーリズムとは何モノだ。【後編】(2022/10/21 閲覧) http://hotozero.com/knowledge/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%88%E5%BE%8C%E7%B7%A8%EF%BC%89/
8,警察庁昭和54年版犯罪白書 第二編第2章第3節3、開放的処遇(2022/10/21 閲覧) https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/20/nfm/n_20_2_2_2_3_3.html#:~:text=%E5%88%86%E9%A1%9E%E5%87%A6%E9%81%87%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%B1%95%E3%81%AB,%E8%A1%8C%E3%81%86%E5%87%A6%E9%81%87%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
9,博物館網走監獄(2022/10/21 閲覧) https://www.kangoku.jp/index.html

(文責 中島美紅)