今回訪れた近江八幡市は、京都からJR琵琶湖線で約30分、滋賀県のほぼ中央、琵琶湖の東岸に位置する自治体です。人口は約8.1万人(2025年10月時点)で、古くから近江商人の発祥地として知られています[1]。「売り手よし・買い手よし・世間よし」という「三方よし」の精神で知られる近江商人の文化が、現在でもこの地域の歴史や町並みに色濃く残っています。また、明治以降にはアメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが活動の拠点とした地でもあり、和風の町並みの中に洋風建築が点在する独特の景観が形成されています。 今回この地を訪れた目的は、こうした歴史的背景をもつ城下町の町並みを実際に歩き、その空間構成や景観の特徴を観察することでした。今回は近江八幡駅からバスで旧市街地へ向かい、八幡堀周辺を中心に町並みを散策しました。本稿では、その中で印象に残った場所や町並みの特徴について紹介していきます。
まず訪れたのが、近江八幡市の中心部を流れる八幡堀です。水面は非常に穏やかで、思わず立ち止まって見入ってしまうような、落ち着きのある情緒あふれる景色です(写真1)。今回は9月に訪れたため鮮やかな緑に包まれていましたが、春には桜、冬には雪景色などと四季折々の景色が楽しめるとのことです[2]。
写真1 八幡堀の景観
全長 4.75 km、幅員約 15 m のこの水路は、天正13年(1585年)、豊臣秀次が八幡山に城を築き開町したことに始まります。琵琶湖と城下町を結ぶ水運路として整備され、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで人・物・情報を集める機能を担いました[3]。城を守る軍事的役割を担うとともに、物流を支える水運の役割も備えた、重要なインフラでした。 堀沿いの側道を歩いていると、石垣の上に白壁の土蔵や旧家が立ち並んでおり、まるで時代を遡ったかのような感覚を覚えます(写真2)。今日では飲食店やカフェとして再活用されているものも多く、築 170 年の土蔵を改装したカフェや、堀沿いにテラスを設けた食事処なども見られました。外観は当時の町並みの雰囲気を保ちながら、内部は現代の利用に合わせて改修されており、歴史的景観と現在の暮らしが共存する町並みの魅力を感じることができました。
写真2 八幡堀沿いの町並み
この堀はさらに、瓦産業とも深く結びついていました。「八幡瓦」は、元禄期に京都より移住した瓦師による本願寺八幡別院の瓦葺きに始まるとされます。原材料の輸送や製品の流通には、八幡堀や琵琶湖の湖上交通が大きな役割を果たしました[4]。土と水運という内湖の恵みを活かした循環型の産業が、この堀の周辺で生まれていたのです。 八幡堀の曲がり角に、かわらミュージアムがあります。ここは、こうした八幡瓦の技術や伝統を後世に伝えるために建設された瓦の博物館です[5]。建物には2万枚以上の屋根瓦が周辺の町並み景観に調和しているだけでなく、屋外の小道の地面には、瓦のモザイクアートが施されており、どこか遊び心を感じました。
写真3 かわらミュージアム
八幡堀沿いを西へ進むと、参道の正面に鳥居が立っています(写真4)。日牟禮八幡宮です。古くから地域の総鎮守として信仰を集めてきました。近江八幡という地名も、この八幡宮に由来するとされています[6]。参道入口から立派な鳥居をしばらく眺めた後、次の目的地へ向かいました。
写真4 日牟禮八幡宮の鳥居
八幡堀から南へ進むと、新町通りに入ります。格子戸や白壁土蔵が落ち着いた景観を形成する中、特に目を引くのが「見越しの松」です。塀を越えて通りに張り出した松の枝が、町並みに風情を添えています。9 月の青松が白壁の間からのぞかせる景色は統一感のある落ち着いた印象でした。 街路の構成についても特徴があります。戦国時代の城下町といえば、敵の侵入を防ぐために行き止まりや丁字路等を多用して道を複雑にする例が多くありますが、一方近江八幡はやや性格を異にします[7]。豊臣秀次は八幡堀を挟んで武士と町人の居住区に二分し、町人の居住区では南北 12 本・東西 4 筋の碁盤目状の、見通しのきく整然とした直線の街路割りで構成しました[8]。この京都を模した合理的な区割りと、楽市楽座等の商工業保護政策が、その後の近江商人の発展の原動力となりました[9]。 実際に歩いてみると、街路が真っ直ぐに伸び、交差点の見通しがよく、距離感が非常につかみやすいことに気づきます。防衛よりも、商品の運搬や人の流れを最大化するための合理的な設計だったことが、歩きながら実感できました。
写真5 新町通り
和風の城下町を歩いていると、通りの中にモダンな洋風建築が現れます。アメリカ人建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories, 1880?1964)の作品群です。市内には現在も 20 軒以上のヴォーリズ建築が現存しており、町を歩くと各所で洋風建築に出会います。 仲屋町通りに建つ旧八幡郵便局は、大正10年(1921年)に郵便局として設計された 2 階建の洋風木造建築で、スパニッシュ様式を基調としながらも和の要素を取り入れた和洋折衷のデザインが特徴とされています(写真6)[10]。正面には緩やかなアーチを描く玄関が設けられ、外壁は漆喰で仕上げられています。洋風建築でありながら、通りの中で極端に目立つ印象は受けませんでした。白い漆喰壁と瓦屋根の落ち着いた色調も、周囲の白壁土蔵や町家の景観と自然に調和しているように感じられました。
写真6 旧八幡郵便局
郵便局としての役割を終えた後、この建物は長らく空き家となっていましたが、市民団体「一粒の会」による保存再生活動によって修復され、現在は無料で一般公開されています[10]。中にはカフェも営業されており、冷たいドリンクをいただいて町歩きの疲れを癒すことができました。 ヴォーリズは明治38年(1905年)に英語教師として近江八幡へ赴任しました。布教活動を行ったことで地域からの反発を受け、教職を離れることになりますが、その後もこの地に留まり、建築設計と社会事業を続けました[11]。事業で得た利益を教会や学校、病院の設立など社会事業に充てるなど、地域社会への貢献を続けたことでも知られています。こうした活動を通して、信仰の違いを超えて地域の人々から信頼を得ていったとされています。 近江八幡は、近江商人が自らの利益のみを追求するのではなく、社会に還元する精神を大切にしてきた土地でもあります。こうした町の気質と、地域に根ざして活動しようとしたヴォーリズ自身の姿勢が重なり、この地に多くのヴォーリズ建築が残る背景となったのかもしれません。
町を歩いていると、日牟禮八幡宮の鳥居の向かいに、ひときわ印象的な建物が目に入ります。白壁と洋風の装飾を備えた白雲館です(写真7)。明治 10 年(1877 年)に八幡東学校として建設されたこの建物は、ヴォーリズ建築ではなく、地元の大工が手がけた「擬洋風建築」です。八幡商人の熱意と区民の協力によって、西洋建築の様式と日本の伝統技術を取り入れて建てられたもので、建設費の大半が寄付で賄われ、当時にして 6,000 円(米 1 俵が 1 円 34 銭の時代)が集められました[12]。現在は国登録有形文化財に指定され、観光案内所として活用されています。中にはまち歩きに役立つパンフレットや観光案内が並んでおり、町を巡る前に立ち寄る拠点として便利な場所でした。無料で気軽に立ち寄れるのも嬉しいポイントでした。 正面から眺めると、洋風の構えの中に玄関上部の唐破風(からはふ)の曲線が入り込んでいるのがわかります。この唐破風と屋根上の太鼓楼の組み合わせは、国宝・旧開智学校の造形に類似しているとされています[13]。西洋建築を模しながらも、日本の伝統的な意匠が随所に取り入れられており、明治期の人々が西洋文化を取り入れようとしていた時代の雰囲気を感じさせる建物でした。
写真7 白雲館
近江八幡の町を歩いて感じたのは、ここが単に「古い町並みがきれいに残っている場所」ではないということです。豊臣秀次が設計した碁盤目の街路構造、近江商人が育んだ水運と商業の文化、明治期の近代化が生んだ擬洋風建築、ヴォーリズが持ち込んだ西洋建築??それらが時代ごとに積み重なりながら、今日の町並みを形成しています。 こうした景色が今日も目の前に広がっているのは、決して当たり前のことではありません。かつて生活排水の流れ込む公害源と化した八幡堀は、埋め立てが真剣に検討されていました。それを押しとどめたのは、昭和47年(1972年)に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合言葉に呼びかけた市民運動であり、毎週日曜に会員自ら堀に入って続けた地道な清掃活動でした[14]。旧八幡郵便局もまた、市民団体「一粒の会」による保存・修復活動によって現在の姿が守られています[10]。 彼らの地道な努力なしに、今日私たちがここで歴史を「見る」ことはできなかったのだと思うと、現在の景観が多くの人の行動の積み重ねによって維持されてきたものであることを、改めて認識させられました。いつかまた、別の季節にこの町を訪れてみたいと思います。
文責 谷川百音
写真 谷川百音・大草裕樹