紀伊大島〜台風に耐え抜くまち〜

◆はじめに

紀伊大島は和歌山県の南部に位置する人口約2,000人の島です。江戸時代以来、この島では半農半漁が営まれ、海金剛と呼ばれる特徴的な景勝地や1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件を記念するトルコ軍艦遭難者慰霊碑やトルコ記念館、日本最古の石造灯台である樫野崎灯台があります。元々、本州との交通手段は巡航船でしたが、1999年にくしもと大橋が架けられたことで自動車によるアクセスが可能となりました。今回は私たちが訪れた紀伊大島東部について、そのまちなみを地域の気候・地形という観点から見ていきます。


写真1:海金剛

◆台風に備えたまちなみ

紀伊大島は台風銀座と呼ばれており、そのため島内の集落は台風に備えた特徴的なまちなみを形成しています。図1は紀伊大島東部の標高と住戸(橙色)の分布を表したものです。内陸部の台地に集落がまとまって形成されていることがわかります。この台地は、波食台という、波の浸食によって削られて出来た平坦な岩礁面と、海面変動又は隆起によって形成されたと言われています。


図1:紀伊大島東部の標高と住戸の分布
国土地理院「地理院地図」を元に筆者が編集

住戸は新しいものを除いてほとんどが平屋建てで、その周りには風雨から家屋を守るための高い石垣やブロック塀が築かれています。実際にこの場所を散策してみると、曲がりくねった道が多く、また道幅が狭く感じられました。そのため、限られた低地に住居が密集しており、台風で吹き込んでくる風を分散させて勢いを弱まらせるための対策ではないかと思いました。


写真2:石垣で囲われた家屋と入り組んだ狭い道

◆エルトゥールル号遭難事故

台風の到来が多い紀伊大島は、過去に沖で発生した台風による痛ましい事件の舞台となったこともあります。エルトゥールル号と呼ばれる、オスマン帝国(一部は現在のトルコ)の軍艦が遭難し大破してしまった事故です。1890年6月7日に横浜港に入港した一行は、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として日本政府の歓迎を受けました。同年9月15日に横浜港を出港したエルトゥールル号は翌日16日夜、台風による強風にあおられて紀伊大島の樫野崎近くの岩礁「船甲羅」に衝突し、座礁してしまいました。樫野崎灯台に辿り着いた乗員数名の要請を受け、村民による懸命な救助活動が行われました。この遭難事故は結果的に69名が生還、残る587名は死亡又は行方不明の大惨事となってしまいましたが、村民や日本政府の対応はオスマン帝国内に広く知らされ、日土友好関係の始まりとなりました。


写真3:樫野崎灯台

◆トルコ軍艦遭難者慰霊碑とトルコ記念館

後年になり、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者を弔うためのトルコ軍艦遭難者慰霊碑が建設され、日土友好を記念したトルコ記念館が建設されました。慰霊碑は長年に渡り地元小学生らにより手入れされており、綺麗な姿を保っています。トルコ記念館館内にはエルトゥールル号の模型や遺品などが展示されており、遭難事故当時の逼迫した状況を窺い知ることが出来ます。また、2階からは船が座礁した遭難現場である船甲羅岩礁を眺めることが出来ます。エルトゥールル号遭難事故と1985年のトルコによるテヘラン邦人救出をもとに作られた「海難1890」という映画も紹介されています。


写真4:トルコ記念館

◆おわりに

紀伊大島を台風の観点から見ていきました。頑丈に固められた石垣や平屋建ての家屋、狭く入り組んだ道など、島内を構成している特徴的なまちなみの要素から、島民たちが厳しい気候条件と向き合いながら少しずつ積み重ねてきた時間の流れを感じました。島に到来した台風はエルトゥールル号遭難事故という悲劇も引き起こしましたが、島民の救助活動により日本とトルコの友好を深めるきっかけにもなりました。自然の厳しさと、それに立ち向かいながら最大限の努力を尽くす人々の逞しさを感じました。

◆参考文献

・『トルコ記念館 南紀串本観光ガイド』一般社団法人南紀串本観光協会https://kankou-kushimoto.jp/ (2019年9月15日閲覧) ・串本町ホームページhttps://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/ (2019年9月15日閲覧) ・梅本信也, 2003, 紀伊大島フィールド・ガイド―自然編―, ユニバース印刷, https://fserc.kyoto-u.ac.jp/oshima/inspection/pdf/7.pdf(2019年9月20日閲覧)

(文責:内田)