網走監獄-建築編-

◆博物館網走監獄について

網走監獄(旧網走刑務所)は明治時代の末に収監者によって建てられ長くにわたり使用されてきました。昭和50年代に老朽化のため取り壊しとなるところを、文化的価値を見出す市民によって財団が結成され、刑務所より払い下げを受けた末、1983年に歴史野外博物館として「博物館網走監獄」は開館しました。
博物館網走監獄では移築復原した現存する木造行刑建築物としては最古の建物25棟を保存展示しています。2016年にこのうち8棟が国の重要文化財に、6棟が登録有形文化財に登録されました。
この編では、建築的にも魅力的な網走監獄の建築物について紹介したいと思います。執筆にあたり、来館日2022年9月17日に催されていた特別展「大正・昭和戦前期の行刑建築」の展示内容を参考にさせていただきました。ここに感謝申し上げます。

◆行刑建築について

建築物の紹介に先立って、行刑建築の歴史についてお話ししたいと思います。
「行刑が建築する」という言葉があるように、行刑の方針や思想の時代変遷とともに行刑建築のファサードや機能は変化していきます。日本の行刑建築は3つの類型に分けることができます。

(1)五大監獄建設期(明治時代):木、煉瓦や石を特徴とした洋風建築
例:五大監獄(千葉監獄、金沢監獄、奈良監獄、長崎監獄、鹿児島監獄)

特徴
1、並列型ではなく放射状の舎房を建設。
2、一つの監獄内を既決(懲役)、未決(拘置)、病監、女監に内壁で区画する。
3、雑居房、夜間独居房、昼夜間独居房による拘禁分類を行う。

背景
明治時代初期は技術、財産基盤、人々の行刑に対する理解・関心が不十分で、地域によって処遇方法に差異がありました。司法・行政制度の改善が早急に必要であった時代において、進んだ行刑思想とその実践のための欧米風の建築は先進的と評価されていました。

(2)教育主義発展期(大正時代):応報主義から教育主義への行刑刷新と様式主義の反省
例:豊多摩監獄

特徴
1、大正2年(1913年)には中央保護会が設立され、全国免囚保護大会を開催する。
2、同4年には「監獄法」で定めた監獄の種類をさらに調整し、長期監、未丁年監(未成年)、女監を設定する。(社会復帰)
3、被収容者の成績によって階級をあげ処遇方法を変更させる階級処遇、累進処遇の試験的な実施。(社会復帰)
4、同11年には「監獄」から「刑務所」のように牢獄的な印象を払拭するための行刑用語の改正が行われる。(行刑への理解)

背景
円滑な社会復帰、地域の行刑理解を深める努力がみられる時期です。行刑思想が犯罪者を罰する「応報主義」から社会復帰へと導く「教育主義」へと変化していく様子が伺えます。
また「五大監獄」は様式主義的だという批判もあり、独自性を有する建築が期待されることとなります。豊多摩監獄は1915年に竣工しましたが、材料が煉瓦であることは五大監獄と共通しているものの、表門や庁舎といった官庁としての象徴部分に当時のドイツを中心に流行した建築表現を取り入れることで優しい印象を出しています。建築評論家の長谷川堯氏も新時代の到来を予感させるこのデザインを高く評価しています。

(3)関東大震災復興期:行刑思想とともに変化していく建築へ
例:小菅刑務所

特徴
1、居室内がより衛生的であること。
2、教育的な行刑に即した拘禁分類。
3、刑務所への理解・印象の改善をするための施設設定・配置。

背景
関東大震災で東京周辺は大被害を受け、材料・構造をはじめとした建築各分野で見直しがなされました。刑務所も同様、司法省は行刑建築が鉄筋コンクリート造とすることを推奨する調令を出しました。また鉄筋コンクリートは木やレンガに比べ一度建設すれば容易に改築できない材料ゆえ当時の技師蒲原義雄は「数世紀の間存続し、しかもその時々の行刑思想に順応しうる」もの、すなわち行刑の目的と変化していく理念を理解した上で建築を行うことを目指しました。

◆建築物の紹介

本節から網走監獄の建築物について紹介したいと思います。
図1は旧網走刑務所二見ヶ岡刑務支所です。1896年網走の西方丘陵地二見ヶ岡に自給自足を目指して農場が造られました。この農場は塀のない開放的処遇施設で、現在も被収容者が自ら作物の管理から収穫まで行っています。

建物は現存する木造刑務所の中では最古で、1999年博物館網走監獄に移築されました。渡り廊下でつながる庁舎、舎房、教誨堂および食堂、鍵鎖付着所、炊場の5棟すべての建物が重要文化財に指定されています。


図1 旧網走刑務所二見ヶ岡刑務支所(重要文化財①②③④⑤ ※5棟が重要文化財)著者撮影

図2は旧網走監獄庁舎です。1987年まで網走刑務所の管理部門の建物(典獄室、会議室、職員の執務室)として使われていました。淡い色彩の外壁と屋根につけられたドーマー窓は明治期の典型的な官庁建築スタイルで、上げ下げ窓や天井のレリーフ、ストーブの煙突の穴には軟石に装飾したメガネ石が嵌め込まれるなど、細部にまで瀟酒な装飾が施されています。


図2 旧網走監獄庁舎(重要文化財⑥)著者撮影

図3は旧網走監獄舎房の内観です。1984年まで最大700名を収容することができる網走刑務所の獄房として使われていました。舎房の廊下には天窓がつけられており、クイーンポストトラスの小屋組と鉄筋の開き止めによって光の刺す明るい空間をつくりだしています。舎房の堅格子(斜め格子)は中から向かい側の舎房が見えないように工夫されていて、堅いヤチダモの木で造られた扉は堅牢な造りが特徴です。昭和の脱獄王として有名な白鳥由栄は2度の脱獄経験の末網走刑務所に送られましたが、食事を木に向かって吐いて木を腐敗させてと、長い時間を要して3度目の脱獄に成功しました。
重要文化財には放射状に広がる5棟の舎房(独居房、雑居房計226房)と、中央に位置して360度を見渡せる見張り所が指定されています。


図3 旧網走監獄舎房(重要文化財⑦)著者撮影

図4は旧網走監獄教誨堂です。被収容者に精神的、倫理的、宗教的な指導を行う場として使われていました。外観は瓦屋根を基調とした和風建築であるのに対し、内観は柱のない広い空間、腰高の板壁と漆喰の白い壁、天井のシャンデリアボックスに施された美しいレリーフを特徴とする美しい洋風デザインとなっています。神仏が宿る場所ゆえ被収容者が精魂込めて建築したといわれる建物です。


図4 旧網走監獄教誨堂(重要文化財⑧) 著者撮影

これら以外に6棟の建物が登録有形文化財に指定されています。図5の哨舎(見張り所)や図6の煉瓦造り独居房などがその例です。


図5 哨舎 著者撮影

図6 煉瓦造り独居房 著者撮影

デザインに関して、入口の門が堅固な造りであるために内部も同様の建物が多いのかと予想していましたが、明るい色彩の建物も多かったことに驚きました。旧網走監獄舎房は監獄らしい場所ではありましたが、木が味わいを出していてコンクリート造の現代らしい刑務所に比べあたたかい印象を抱きました。旧網走監獄教誨堂の外観と内観の違いには非常に驚かされました。白と淡い水色を基調とした内観は非常に美しく著者もとても気に入りました。網走監獄のデザインは全体的に和洋折衷の建築が目立ちますが、これは網走監獄が建設されたのが1891年だということからも、建築家の意向を取り入れたというよりも時代の変遷とともに変わる行刑思想についていこうとした監獄建築の努力と言うべきなのかなと感じました。
また博物館としても内容が充実していて素晴らしかったです。建物の中には人形など展示用に仕掛けが多数用意されていましたが、これに助けられて当時の風景を想像することができました。
博物館には鏡橋の展示もありました。網走監獄の被収容者は収容される時も出所の時も刑務所の外堀に沿って流れる網走川にかかる橋(鏡橋)を渡ることが決まりとなっていました。鏡橋という名前の由来は、収容または出所予定の者が川面に映った自身を見て、襟を正し心の垢をぬぐい落とす目的で岸に渡るようにしていたところから来たそうです。網走刑務所鏡橋は現在までに4回掛け替えが行われていますが、橋と橋に対する想いが引き継がれています。

◆まとめ

「行刑が建築する」という言葉があるように処遇・行刑と監獄建築は互いに不可分の関係にあります。3つの行刑建築が盛衰する期間はわずか20年ほどと短いですが、背景には行刑思想の模索と成熟がうかがえます。
同時に、この期間は建築や都市は時間の経過とともに変化するものゆえ、動的プランニングが必要という示唆を我々に与えているのではないでしょうか。どのような建築においても社会の変化に「しなやかに対応できる建築」であることが重要です。
刑務所の建築も幅広い用途や時間の変化にも対応できる「クロノデザイン」であるべきでしょう。

◆参考文献

・内藤廣,浅見泰司ほか(2020),クロノデザイン 空間価値から時間価値へ,彰国社
・長谷川堯(2007),神殿か獄舎か(SD選書),鹿島出版会
・堀切沙由美(2021),昭和初期の刑務所建築に反映された新しい行刑のあり方,日本建築学会計画系論文集,86,781,1096-1101
・南一誠(2014), 時と共に変化する建築 使い続ける技術と文化,UNIBOOK
・南一誠(2021),しなやかな建築,総合資格
・山井翔太(2012),近代日本における監獄建築の処罰・更生空間に関する研究 既決監獄(刑務所)を対象として,平成24年度日本大学理工学部学術講演会論文集
・博物館網走監獄ホームページ(2022年11月1日閲覧)
URL: https://www.kangoku.jp/

(文責 間宮竜大)