「まちなみ住宅へのアプローチ」

平成19年10月15日  村上美奈子先生 「六角形の家」 5つの庭と相隣関係
 これは、私が芸大の修士課程を卒業した頃の初期の作品です。
敷地を斜めに使って、六角形の家を建て、光が家の中に差し込むように設計しました。

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 アプローチ空間と、駐車スペースにつながる台所のバックヤード的な空間など5つの庭を設けて、室内に日が充分に入るよう配置する。こうすることで、同じ大きさの庭でもずっと奥行きが出てきます。また以前に比べて庭に日が当たるようになり、南側にあるアパートの影響が少なくなりました。
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 この住宅を設計したことにより、土地の利用のしかたを工夫することで、今まで敷地境界に平行に配置されていた建物に比べて、居住環境や空間利用がもっとよくなるのではないかと感じ始めていました。
 このように隣り合う敷地を気にしながら建物を設計することが大事であると気がついたのですが、まだこのころはまちづくりを意識して設計していた訳ではありませんでした。
建築界デビュー
 自分の作品を建築専門誌に売り込むということを知らなくて、この時期のいくつかの住宅を一般紙に載せてしまいました。そうすると、もう専門誌では取り上げてはくれないのです、10年間ぐらい私の作品は住宅専門誌には掲載されず、いわゆる建築界にデビューができない状態が続きました。
 その後に手がけた住宅は、建築雑誌に載るようにかなり意図的に設計したものです。お客さんの意向も取り入れますが「専門誌に載せるぞ」という洗練された意識を持っていなければ、なかなか載せるレベルにはならないものです。
「3:4:5」

建築と軸線
 住宅を設計して行く中でまちなみに対する考え方が変わって来たころの作品。
 この頃私は、地域の中の軸のようなものに興味を持ち始めていて、生活軸や方位の軸、敷地境界や自然など、様々な軸を拾っていくことで、一つの住宅と周囲のまちなみとの関係性が持てるようになるのではないかと考えるようになりました。
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2つの軸と軸が出会う角度のところに通常のグリットとは違った新たな空間が生まれることに気がつき、その納め方に建築家としてのノウハウが蓄積されていると思います。

「Tan-1 0.2」
敷地との関係性・・・地勢に従う
 これは八ヶ岳の諏訪に近い場所にある別荘です。
八ヶ岳一帯の土地には傾斜があり、この家はその敷地の等高線と道路境界線に合わせて設計をしたものです。八ヶ岳で別荘を設計した方なら分かると思いますが、このように幅が15メートルぐらいの建物を設計すると、その両端の基礎部分では1メートル50センチぐらいのレベル差が付いてしまい、敷地にそぐわない住宅になってしまう。そこで、等高線に合わせてプランに少し角度をつけるとうまく地形に馴染んでくれるようになりました。
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 模型を作っていても真っすぐだとか四角といった形態ではどうも自然に対抗しているようになりましたが、角度をつけることにより周辺環境に馴染んでくれることがなんとも言えなかった。
 室内から窓越しに外を眺めると、庭が立体的というかパノラマ的な雰囲気になります。このように内部から見ても面白さがあるということで、自然と建物の関係がなかなかいいなと感じました。

「向島三枚仕立て」
下町住宅の開発
 この住宅は墨田区の下町で不燃化促進事業に取り組んだ時のものです。
 耐火建築の住宅では、扉が常閉の防火戸になってしまいます。今までの引き戸のように、いつでも人が入って来られるよう、少し戸をあけておくことによって生まれるコミュニケーションのとり方が難しくなります。また、規模が小さな建物なので大きなゼネコンさんはやってくれず、地元の大工さんが耐火建築をつくることになり、下町住宅をどのように造っていくかを考えました。そんなことから、『墨田下町住宅の開発』ということに係わることになりました。 住宅設計と地域コミュニティ
 耐火建築で設計すると、容積率をかせぐ為に外壁線が敷地境界ぎりぎりになり、木造住宅では、隣の軒とこちらの軒の間の1メートルぐらいの建物どうしのスキマを人が通っていたのが出来なくなってしまい、通りの裏と表の人の行き来が絶たれてコミュニティが変化したり、共用の排水路がうまく機能しなくなったりということがありました。そのように、一軒の住宅が都市の機能のあり方を変えてしまうという状況の中で、下町のモデル住宅を設計した中の一つを紹介します。 空間のヒエラルキー
 外部から内部へ三重の壁をイメージして設計したのが三枚仕立ての名前の由来です。
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 空間を少しずつ内側に囲い込むことによって、外の質と中の質と段階的に変えていく。隙間が中間的な役割を果たし、設計の中で、外から中に入って行く感覚をより強く出そうとしました。

吉田五十八デザインの引用
 3段階の空間構成の中で一番内側を和風にするというコンセプトで設計しました。コンセプトを明確にするために、長押の意匠は吉田五十八先生の床の間のディテールを引用し、長押と欄間が柱を通り越して廊下まで伸びることで和の空間を強調しました。
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また外観と内部のイメージの違いを演出することで、都市のまちなみと下町の暮らしを調和させました。施主は骨董品をあつかう店主だったので、都市空間と生活空間を段階的に切りかえていくという設計にしています。
「WAVE一蚕糸」
複雑な敷地を読み解く
 一見して複雑な形をしていますが、意図的にこうしたというよりは、敷地の条件とその形状から生じた形ともいえます。
 土地が遺産相続でいくつかに分けられて、いびつなかたちになった敷地です。また、奥行きに比べて接道部分が非常に狭いという状況に対してどのように設計していくかという過程で、地形や隣接建物、方位などの軸線を拾っていきました。
 最上階のオーナーの住宅には、この軸のズレを内部造作に表現していますが、これはもう設計者の意地でやっているようなもので、こういう細長い変形空間をどのように成立させていくかがテーマだったように思います。
 たまり場にもなる入り口部分には共同住宅のアプローチや半地下の賃貸スペース・・・ここにはしばらく私の事務所が入っていましたが・・・そのエントランスに加えて、停車スペースを設けてあります。このエントランスの空間には、よく若い人たちが座ってだべっていたり、ファッション誌の撮影にも使われたりしました。

「蚕糸試験場跡地不燃化まちづくり」
既成市街地における、まちなみづくり
 もともとこの場所にあった蚕糸試験場は、つくば学園都市に移転が決まり、その跡地を都市の過密解消に活用していくということで、周辺住宅地域を不燃化しつつ、跡地に防災公園の機能を作っていくという不燃化街づくりでした。国から杉並区に土地の払い下げが可能になるために条件がつけられた物件でした。杉並区の企画課をはじめとした建築関係の方、あるいは土木関係の方と一緒に進めたわけですが、当時は街づくり課とか住環境整備課というものはなくて、担当部署として都市整備課が創設されました。そういった中で街づくりをする訳ですが、どうやって進めるべきか行政もわからないことだらけでした。ちょうど私は墨田区で不燃化促進事業をやったり、世田谷区で修復型街づくりを手がけていたので、まだ40歳にならないころでしたが、このプロジェクトに関わるチャンスを得ました。
 昭和58年・59年頃に地区計画策定の作業をするのですが、これは住宅専用地域を対象に防火地域に指定し、街づくりするという、それまで例のないものでした。公共施設整備に関連した駅前再開発や都市計画道路沿いの土地の高度利用を目的にした開発とは違った、既成の住宅市街地の性能をどのようにあげていくかということです。まちなみを考える時に、景観上のまちなみもありますが、その街のポテンシャルを上げることや、その街のコミュニティをどう作っていくかという街づくりもあると思います。それらが総合的に景観として現れてくる。つまり、住んでいる人の意識や、社会的に自分達の街を考えることが、生活の積み重ねの結果として街並みをつくることになってくるのです。
防災公園
 防災公園と学校を一体化させて、塀のない設計を行ないました。グラウンドを小学校と公園とで共用し、時間で分けて使うようにしました。敷地全体4.2ヘクタールを一体的に使おうというコンセプトで計画を進めた訳です。また小学校の校舎を中野側にある既存市街地の火災を止める防火壁として機能するように配置しています。跡地内を防災公園とするため(10ha未満の場合、周辺市街地を不燃化する必要有)周辺に防火地域の指定をかけるのであれば、近隣住民の意に添った計画にして欲しいということで、こういうコンセプトに繋がっていきました。このプロジェクトは本当の意味での住民参加でまとめられたものです。
 消防用水を兼ねた水辺では、夏に子供たちが遊んでいます。また、校庭を整地した時の残土を利用して小山をつくり、そこでは昼寝をしたり、給食を食べたりすることにも使われています。防災公園なので、周辺市街地が火災になった時の広域避難場所としての利用を前提に、入口には下を通ることによって火を消す水のカーテンになるゲートが設置されています。
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 これは、関東大震災の時に被服廠(現:安田庭園)に逃げ込んだ人々の持ち物や衣服に火がついて多くの人が亡くなったという教訓から、消火用シャワーやスプリンクラーなどを設置し、プールの水や池の水を使って大体2時間くらい水のカーテンが流れ続けるようになっています。

防犯と地域コミュニティ
 この場所は丸ノ内線の東高円寺駅の近くにあり、幹線道路にも近く、犯罪の危険性もあるということで、当初より学校や公園の安全が課題になっていました。ジョギングコースを作り、朝早くや夜に地域のジョギング愛好家の方達が巡回を兼ねたジョギングを行っています。安全確保も兼ねて、タッチライトや腕章をつけてジョギングするグループを作って、時間帯を調整しながら走ることにしています。
 地域の人達の参加で塀のない学校を作ったため、大阪の池田小学校の事件が起きたときには、なぜ塀を作らないで学校の安全を保てるのかということで、調査に来られる方もいます。しかし、保護者の中には塀を作って欲しいと言う人もいました。街づくりを行ったグループは人の目による監視を行っていて、今も時間を割り振って巡回し安全を保っています。
 自分たちの意志で塀を造らない街づくりを行いましたから、今でも街づくりの意識レベルが高く育っています。また、蚕糸試験場跡地の公園と小学校になぜ塀がないのかというパンフレットを作って配っています。
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そこには塀がないと生徒やPTAだけでなく、みんなの学校になるという趣旨が書かれています。塀がないため、朝礼していても通勤の人が横断していくようなことがあり、そういった人にマナーを守ってもらうためにもつくりました。

まちなみ形成と道路整備
 道路の整備については、両手を広げると反対側の塀に届いてしまうような消火活動が難しい狭隘道路がありました。駅に近いので木造のアパートが数多く建っているというような状況で、南側の大蔵省の官舎跡地を街づくり用地として道路拡幅をおこないました。この道路ももとは4メートル未満の巾で、両側を高い塀で囲まれていたため、暗く、危険で誰も通らない道でした。その道を12メートルから15メートルの幅員にしましたが、自動車交通量を多くしたくないということで、車道の幅員は3.5メートルの蛇行した一方通行の道になっています。防災の機能を保ちつつ、車両はあまり入れないということをみんなで決めました。
 もう一つの区画道路では幅員を6メートルに拡幅したケースです。建物の建替えにあわせて敷地を後退するので、蛇玉状に繋がっていく道路の造り方です。こういうことも、街の防災上の性能ですね。基本性能がないといくら街並みを揃えても充分とは言えないでしょう。

法的誘導の限界
 街づくりを行う上で、住民に耐火の住宅とはどういうものなのかを説明したり、街区ごとに用途地域を変えた時どんな土地利用ができるかシュミレーションしました。一生懸命模型を作って持っていったのですが、全て、住民から否定されました。「こんな味気のない街になるなら、不燃化なんかしたくない」と言われたのです。スタディしてみて分かったことは、今の用途地域の決め方で土地利用を考えていくと、建築基準法や都市計画法で、一棟一棟の土地利用や建築を規制することはできても、街並み形成には全然役に立たないということです。それは、6メートルの幅に道路が整備されると、そこに面する宅地だけは高度な土地利用ができますが、後ろ側は全然陽が当たらなくなって住宅地として機能しない街となるため、全体として住みやすい住環境になるかというと、とても難しいということがわかりました。

住民が考える建築ルール
 日本で最初に不燃化促進事業を始めた墨田区に密集住宅地を見学に行きました。ペンシルビルが建ち並ぶ土地利用を見て、こういう街並みにはしたくないとみんなが言い出し、角地の建ぺい率の10%割り増しもしない。空地と緑を確保しようとか、用途とか最高高さを第一種低層住居専用地域並みにしようという内容になりました。また、3階部分の建物の壁面を隣地から1.5メートル後退させようとか、高度利用はしないということにしたため、地区計画の策定が始まったときは、議会からもルールが厳しすぎるのではないかと言われました。

 ディベロッパーやプレハブメーカーからは「これでは我々の建築が建たないじゃないか」などとも言われました。

地域コミュニティとミニ開発
 顕著なことは、広巾員道路沿いの地区でも、ディベロッパーが入り込めないため、親子代々ずっと住み続けていられるということです。小学校の運動会なども地域住民との協力関係がよく、街づくり文化が育っていますし、住んでいる人々の生活の持続というのも街並み形成において重要だと思います。
 ただ一つ残念なことは、都市計画法の改正で、防火地域でも100平方メートル以下なら木造が建てられるようになったことです。そうすると、木造準耐火構造のミニ開発が始まってしまったのです。結果として、大蔵省が管理していた土地が30戸くらいのミニ開発になって、分譲されてしまった。これには住民も怒りました。一生懸命耐火構造にせねばと言って防災街づくりをやってきたのに、国の法律が変わってまたミニ開発に変わるとはとんでもないと言っています。

「新宿区若葉地区住環境整備」
小規模連鎖型共同建替えの地区計画
 新宿区四谷の若葉町では密集市街地の住環境改善で、2棟連結型共同建替えが可能な地区計画の都市計画決定を行いました。今は無くなりましたが再開発地区計画を既成市街地にかけて、当時はなかった緩和型の地区計画・・・今でいう街並み誘導型の地区計画とか防災街区整備地区計画が策定されるきっかけになった仕事でした。  四谷の台地部分には昔からお寺がたくさんあり、
[画像9:水色がお寺]
江戸城の外堀を造った時に城外に出てきて、甲州街道の警備のために崖沿いに移転したそうです。台地の下の高さが5メートルから15メートルぐらいの崖に囲まれた谷地は職人や下級武士のためにできた住区として今でも町割が残っています。

密集市街地開発の課題
 先ほどの蚕糸試験場跡地では平均敷地規模が約150平方bであったのですが、ここでは50平方bなのです。同じ密集市街地でも平均敷地規模がいくらか、道路率がどれくらいあるのかで対応策がまったく違ってきます。50平方bを切っている敷地に対して道路用地を負担してもらうことは実際には不可能です。それから、日影規制が共同化の阻害要因になっていて、逆に法規制による恩恵をまったく受けていないのです。つまり、表通りに面している建物は建て替えられるのですが、一軒内側に入った所にある建物は建て替えるのが非常に困難で、共同建替えもできず、結果として増改築が繰り返し行われている状況でした。
 そのような状況で生活環境を改善したまちなみをどのようにつくっていくか、合わせて有効な土地利用を前提に、いかに空地を確保して行くか、共同建替えを可能とする為に新しいルールを模索しなければならないことになりました。
 とにかく日影規制を外さないと共同化は出来ないということで、色々調べた結果、再開発区域内は、東京都安全条例でこれが外れるということに気がつきました。
 そこで、南北軸に棟を揃えながら、若葉通り沿いと崖沿いに空地を取り、そこから日照採光を得て住環境を改善する方法をとりました。
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これをみると既存の通路をグループ単位としたブロック毎の共同建替えですが、総体としてのまちなみは南北軸で連続するように見て取れます。
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このような計画が実現可能なルールにしようということで都市計画をつくっていきました。
 また、まちづくりの会議などに参加できないお年寄りの方の為に、まちづくりの案を示したビデオを作りそれを肉屋さんや総菜屋さんにおいてみんなで見てもらおうということもしました。このような活動をしながら、都市計画決定まで持って行くことができたのです。

まちづくりのルール
 これは本当にあった事ですが、駐車場を造る時には、建物の高さが制限されている為にその一部を半地下にして斜路をつくる。つまり歩道につながる空地を斜路として使って車が出入りするのですが、こうすると歩道の一部が斜路によって分断されてしまいます。しかし、区役所ではこれを制限できません。法規制上は問題ないからです。そこで、地元のまちづくり推進協議会の「まちづくり協議」の場では道路境界から2メートル下がってから斜路にして欲しいと申し入れをしました。
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 また、区域を決める場合など、「どうしてここまでやらないの?」とか「ここまで取り込んだ方がいいのでは」などという話も「まちづくり協議」で行っています。 これは崖側の空地(壁面後退による)が完成した写真です。
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擁壁は石積みなど古いものがほとんどで、コンクリートで出来ていても、その下に杭がなく、問題があることが判明しました。この擁壁から壁面の位置が決められ、建物を6メートル以上離すルールによってできるスペースがある訳です。このスペースには防災用の井戸などを設けています。それから、手前に見えるフェンスは全部の空地が繋がったら取り除くという約束で作ってあります。協定したことをまちづくり協議書に書きこみます。
 区の事前協議の段階で、地区計画の届け出をする際に、若葉地区まちづくり推進協議会の「まちづくり協議」の内容を添付しなければ届け出ができないようになっています。このことによって、住民との話し合いの場が保証されることや、まちなみの性能を地域の人達の努力によって獲得していくということができるようになりました。

環境整備と地域コミュニティ
 コンサルタントや私達のような仕事をする人間は、まちを形成していくという感覚を身につけなければなりません。仕事が来てはじめて考えようとしても答えを出すことは難しいのです。こうした地域にはどのような計画が馴染むのか、そこにコミュニティを維持しつつどうやって整備を行うかということを日ごろから温めておくことが非常に重要です。「えいや」と再開発をしてしまえば楽なのかもしれませんがそうするとほとんどの住民が住み続けられないという状況になってしまいます。  高齢化の進んでいるこの地域では、自分たちでグループをつくり隣同士の助け合い組織を路地ごとに形成しています。建替え後には、この路地が各階の廊下になっていくのです。やはり長年続いて来たコミュニティは大事だと感じました。近所ではマンション用地が億単位で買収されて、みなさんホクホクしながら立ち退いて行ったそうですが、その後は孤独になり、あっというまにお金を使い果たしてしまったということを耳にしました。
 「景気が低迷している今だから共同化のやり時だ」と、「自分たちは待っていて良かった」と皆さんが言っています。生活を持続するというのは景気とはまた別の話で、経済的な捉え方もまた色々違うのだと感じました。

まちづくりが住民意識を変える
 私は建築設計とまちづくりのルール作りの両方を手がけたことによって見えてきたことがあります。
 整備計画の認定を取るまでに非常に大変な思いをして資料つくり、関係する行政や団体を説得して歩いたり、そのための資料を作ったり、余分な作業が加わります。また、整備計画を取りまとめる行政の中でも、組織が縦割りなのでなかなか進まないといった、様々な問題に直面しました。しかし、今までご覧いただいたとおり整備の成果が形に表れてきたと感じています。今回私達が共同建替事業にとりくんでいる場所は対象地区の中でも一番難しいとされているところなのです。道路状況も悪いし、敷地面積も小さいし、生活保護世帯も4件あり、身体の不自由な方が3人おられます。この事業が完成すれば周囲の雰囲気も大きく変わってくるのではと思っています。この難関をクリアしたところで、事業に参加する人たちの意識も変わってきて、入居前に管理規定などを住民の方と一緒につくっていますが、やはりみんなで一緒に住むという意識がとても盛り上がっています。また、まちなみとしてはみっともないことはしたくないという意識も段々できてきて、今までバラバラに住んでいた人の発言とは思えないように変化してきました。このように、住民の意識が変わるということも、まちなみ形成の上で重要なことであると感じています。

「質疑応答」 Q:エリアマネジメントの実際について。

A:「蚕糸のまつり」というイベントがありますが、役員の方々はお祭りという意識ではなくて防災訓練だと思ってやっています。地域にある40以上の団体にどうやって連絡するか、テントをどこでどのように組み立てたら何分かかって、どのように片付けたらいいか、というようなシミュレーションを非常時の練習だと思っています。行政の人達はあまり意識していないようですが、取り組み方には大きな違いがあります。他方では区から管轄を委託されているポケットパークで収穫した農作物を、みんなで分けたり、鍋大会をしたり、10月にはお月見をしたり、そこでできたものもみんなで分けてパーティーをするという地域の活動があります。


Q:エリアマネジメントの中心はどのような組織ですか

A:町内会の自治会ではなく、地区計画にとりくんで以来、街づくりに参加した人達が中心になって、そこから人数が増えてきました。町内会は行政からの回覧板を回すというようなことはしていますが、街づくりには関わっていません。小学校の防犯の話で、人の目で垣根をつくるというのも、実ははじめ、父兄は参加していないのです。父兄は新住民の方が多いので、街づくりという意識がない。街づくりをしてきたグループがやっていくうちに、だんだん参加していくようになりました。若いお父さんやお母さん方にはそういうことを今までの生活の中で経験していないので、少しずつ、街づくりに関わった人達が手を差し伸べているのです。


Q:まちづくりに若い人が参加しないとよく言われますが。

A:蚕糸のことで言えば、かなり参加しています。お祭りでは子供を誘い込むようなプログラムを取り入れたり、学校教育と連動したり、メンバーがもとは、小学校PTAの代々の会長が主体になっているということもあり、若い世代と結びつけることも意識的にやっているようです。


Q:「江戸時代まであった地域の中での住み替えが、現在ではできなくなり郊外へ出る人が多い。」と問題視されていますが。

A:非常に重要なことだと思います。例えば、接道が無くて建替えができないような場所では、不動産を売ろうとしても、売れない。四谷のような立地でも1000万円でも売れないというようなケースもありますが、共同化することによって売却できるという意識を持てたことや、事業主体の(財)首都圏不燃公社の持分でつくった集合住宅を権利者の増床という形で子供家族が買って、帰って来たり、あるいは、賃貸との組み合わせで、少しずつもとの住民が戻ってきているという実態があります。  アメリカではもともと、住宅を賃貸的につくります。つまり間取りがスタンダードなので誰にでも受け入れられ、結果として高く売れる。それには経済的なバックアップもあり、ひいては地区全体の価値を上げるのです。よって住宅は再販価値を考えて設計されています。


Q:日本には南面神話があるが、若葉地区の住民の方は気にしていないように感じる。実際はどうなのですか。

A:南面した平行配置というのは北側に日影を作ってしまうので、近隣に対する影響が大きくなり、高密度に暮らしていく上では不向きです。住民の人達には、日影規制なんていらないと言われ、自分たちは家の前に空間があればよくて、通風の方が大事だと言っていました。皆さんそのように思っています。建物を南北軸にして、東西から採光する設計に抵抗はなかった。ところが、ディベロッパーが計画すると必ず南面採光をとろうとします。私たちが描いたプランは南に向いていないので、これでは請け負えないと。南側に窓のない住戸は商売にならないと断られました。やはり、この地区の現状を知らない人が計画に入るとそうなります。しかし地元の方はそうは思っていない。住民は家の前が空くということで喜んでいます。南面配置にしたら、全く密度が上がらないし、日影がもっとできて、風通しも悪くなってしまう。そのため東西採光は自然に受け入れられました。]

ディベロッパーのほうが既成概念に囚われていたと言えます。


Q:建築基準法と都市計画法の間に集合の建築空間を計画する法律がないことはとても大きな問題だと思う。どのようにお考えですか。

A:個々の敷地の設計を制限する法律が建築基準法ですが、街区単位の街並みという視点では、うまく機能しているとは言えないでしょう。ある時、台東区と墨田区と世田谷区の街区を取り上げて、道路率と床面積の関係を調査したことがありますが、道路率が30%〜50%の台東区とか墨田区が仮に容積率が500%になっても、結局床面積として利用している割合は、世田谷区や杉並区と同じで150%くらいしか使っていないという結果でした。それはなぜかというと、日照条件がよく、道路側に面している敷地は高度利用がされますが、その裏は駐車場になったりして土地利用が進まないからです。だから、再開発計画は、広い地域一帯ですれば別ですが、個々の敷地で土地利用を考えても、街区全体としては高度利用にならない状況になっていて、その為に土地利用の効率が悪い。道路や駐車場にばかり空間が取られてしまうので、人通りがなくなるとか、人の目がなくなるとか、商店街が繁栄しないとか、そういう状況になります。もう少し街区単位の計画や街並み単位での計画をつくる方向に変えないと、街は繁栄しないのではないかと思います。


Q:景観条例自体が単体規定、集合規定の欠陥を補うものとして機能しうると思いますか

A:玉川上水の沿道の放射5号線を拡幅する計画があり、沿道をどう玉川上水の景観に沿った街づくりをするか、というプロジェクトを進めていますが、なかなか難しい。景観法は、これまで、地区計画で縛れなかった工作物や緑といったものも対象にはなりましたが、本当にどういう景観を作っていくのかを具体的に示すことが難しいという点と、地方と東京では景観条例の扱い方が全然違うような気がしています。東京都の考え方は、景観を都全体で考えようとしています。玉川上水も景観基本軸に入っているので、細かく決められています。その結果、地区独自の発想が入りにくくなっています。玉川上水も上流部と下流部では景観が違うと思います。一律の運用ではなかなか難しいため、去年も東京都と激しいやり取りをしました。まだ2年間ぐらい交渉しなければならないと思っています。

 景観条例がどのように活用できるかということは充分検証されていないため、いろんな見方ができると思います。ただ、防災のまちづくり計画と似ているところがあって、景観で街づくりをしますと言うと、あまり反対がない。「景観がよくなるならいいよ」ということで地域には馴染みやすいのです。どう景観をつくっていくか、住民のコンセンサスをどうやって作っていくかということは、まだ事例も少ないので課題も多いと思います。このプロジェクトでは植物の扱いが大切になっています。建築基準法等の法規制を拠りどころにするというよりは、玉川上水の緑を活用しようという感覚が強いと思います。

事実、どこの行政の条例を見ても、水と緑のことしか書いてなくて他に地域性を表現できないのかと感じています。

 一番難しいのは、ごく一般的な街でどう景観を作っていくかということでしょう。昔のように地域によって建築の構法に特徴があるというわけではない。それこそみなさんのプレハブメーカーの建物が全国どこに行っても建っているし、違うメーカーさん同士が隣り合って並んでいて、地域性を醸しだすような景観は期待できません。

 私達も一般的なまちに、どのように特色を盛り込むのか、その手がかりを掘り起こそうとしています。


Q:「軸の設定から、都市や環境の空間特性を読み込むことに設計のアプローチが方向転換していく」というお考えをもう少し詳しく。

A:私もショックだったのは、作品のイメージからデ・コンストラクションの建築家と受け止められていたことです。バブル崩壊後の社会風潮からみると自分の仕事は社会悪なのかというジレンマにもなりました、特にザハ・ハディットの設計を意識していたのではなく、後からザハがそういう設計をしていると知ったのですが、軸をずらすという設計手法に可能性があることは気付いていました。そういう設計をすると、一般の人たちにはいい印象で受け止められないようなので、積極的には使わなくなったということはあります。ただ、密集市街地でごちゃごちゃの敷地図を受け取っても、抵抗感など感じることはありません。複雑な地形を読み込むということが普通にできるようになり、軸を設定しても、それを馴染ませる方法を身につけてきたのです。京島でもやったのですが、道路の展開と隣の建物の角度が違っていたりして、隣の建物に合わせると、道路空間が街並みとして変なかんじになる。そこに何事もないように軸線の手法を入れたりして、そっと使うと誰も何も言わないと。そういうこなし方は身に付きました。周辺の建物や、流れに合わせて。

 「街並み住宅のススメ」の制作時に、私が空気感とか空がどのくらい見えるかとか風が流れるとか、不可思議な話をしていたので、他の方からはとりとめのないことを言っているように思われたかもしれませんが、そういう空気感と言うのは、まちなみ形成に重要だなと思っています。そしてその空気感というのはその街では何なのかを掴んでいく。そのように設計のアプローチが変わってきました。


Q:住宅メーカーに一言

A:下北半島の果てまで行って学校づくりをしたりするので、いろいろな場所に行きますが、そんな場所でもハウスメーカーさんの家があるのはちょっとショック。

 日本海側だと、黒い屋根瓦に板壁の町並みができているのに、そういうところにシングル葺きの屋根の家が建っていたり、勾配が違っている屋根が並んでいるのを見るとオヤオヤと思います。それから、先程もお話した「空気感」といった家の中の生活の雰囲気が、屋外に出てくるというのがとても大切だと思いますが、ハウスメーカーの住宅は家の中の性能をすごく重視していらして、外に出て行く性能というのをほとんど意識していない。外側から見ると本当に堅い建物が多い気がします。蚕糸試験場周辺の街づくりで経験したことですが、壁面線の位置を指定したら、みんな揃ってのっぺらぼうの建物を建て始めました。それまで出窓をつくったりしていたのに。そういう街の膨らみとか、生活感が屋外に出てくるような楽しさなどの工夫が消えて、ギリギリまで建てると言う意識がルールを決めた途端に出始める。たぶんお客様の要望が強く出ることには敏感で、まちなみのような家の外に出て行く価値観がハウスメーカーには、希薄なのではと感じます。それが街並みを悪くしている要因ではないかと考えます。先程のメーカーさんのスタイルの件とは別の問題として、そのようなことを感じます。


<村上美奈子氏 プロフィール>

   褐v画工房主宰 一級建築士、再開発プランナー

1965年東京芸術大学建築学科卒業、1967年同大学院修了
「墨田下町住宅開発」を行い、モデル住宅として、「帯屋」「向島三枚仕立」などを設計。
「杉並区蚕糸試験場跡地周辺不燃化まちづくり」及び、「子どもの教育環境調査」、「新宿区四谷若葉須賀町密集住宅市街地整備(再開発地区計画・地区計画)」に、コンサルタント及びまちづくり相談員として関わる。